2010年07月09日
まだ 生きとります
仕事でお付き合いしている 武生の YDさんから
数ヶ月ぶりの電話
YD氏 < おおーい ハマちゃん 元気か? >
< はい なんとか 生きとりますが YDさん まだ 生きとったの? >
< ああ わしも体だけは何とか生きとるけど 仕事は 死んどる >
で 最後は お互い 頑張ろうな で電話は終わったが
<キーボードで 最後 と打ったつもりが タイプミスで 変換表示は 死後 でした >
で 何を頑張るのですか さて?
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その夜 延岡の KM から電話
時々 ポツンと 思いだしように電話かけてくる。
彼が 20歳くらいの時に 銀月アパートの15号室の 小さな部屋で
僕と佐々とKMと 3人一緒に 数ヶ月暮らしていた頃からのお付き合い。
銀月15号室での彼のポートレート
つぎは 以前の 別れの準備 で書いた 青森の REI
どちらも同じ頃の銀月15号室でのスナップです。
このころは 皆 髪が長い
皆 ヒッピーみたいな暮らしをしていた。
さてその 延岡の KMの電話
< はまやんか? 最近ブログ出してないじゃない。
なんか 入院でもしたんかおもて 心配なるじゃん >
< まだ 生きとるよ。 それなりに >
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今日 久しぶりに 丸岡へ 納品に
最初、YHへ 久しぶりのM君に ご挨拶
彼から 帰って来た言葉が
マダ イキテマシタカ?
それから あと何社かに 納品に行ったが
行く先々で皆一様に いやめずらしい お久しぶり と言う
こちらから先に まだ 生きてます と ご挨拶して帰りました。
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延岡の KMは ギター1本あれば 生きていられる。
今も、毎晩ギターを弾いているそうな
ジャズギターに ハマっとるそうな
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京都のころは ギルドのギターを一本かかえて 延岡から やって来た。
ほかに何も持っとらんかった。
< 洗面器なんか無くても 両手がある >
と まるで がばいばあちゃん のようだった。
その 裸の生き方に 僕は随分 教えられた。
そして いまだに 佐々のことを おかあちゃん と呼ぶ。
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京都 銀月アパートの頃 ぼくは 独り リュックを背負って
北海道に行った。 アルバイトしながら 4ヶ月
そのとき 彼は 元田中のアパート住まいだったが
一人残して来た佐々を 守ってくれていた。
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京都で その頃できたばかりの ライブスポット 磔磔 で
東京のボロというホーボー少年と KMが ギター一本でライブをやった
東京のボロはその頃 福生の米軍ハウスに住んでいて
東京に行った時そのハウスまで行ったが 彼はいなくて
若い奥さんが 小さな赤ちゃんを抱かえていた。
子供はもう30過ぎになるだろうな
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延岡KMに よく似た感じのミュージシャンといえば
ブルースの ライトニン・ホプキンス
手拭を首にぶらさげて ストローハット に サングラス
イエー イエー ヘッヘッヘ と笑いながら歌う あの ホプキンスに
よく似てる。
勿論 ブルースだって のりのりに 弾きまくる。
今は フルアコの ギブソンを お洒落に弾いているようだ。
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いつものことだが その夜も 焼酎のんで酔っぱらっての電話
こちらも 思い切り酔っぱらってる
彼は ノッテくると 延岡弁でまくしたてる。
そげんこつ………. そげなこつ………………… なんばいうちょるか…………..
でも 九州の言葉は まだ たいがいわかる。 気持ちのよい喋り方である。
青森の REI と 同郷の KWに やはり あの頃 銀月で
二人で もろ津軽弁で話してみい と言ったとき
二人が喋った言葉は さっぱり解らんかったバイ
まだ 英語のほうが わかるトヨ。
この写真は 銀月のそばの疎水添いで撮った
青森の KWと 佐々(イカリ)
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その 延岡の KMと 青森の REI と 青森の KW と他 何人かで 作った
on という 同人誌
Vol.1 の 表紙 (前にもブログで紹介しましたが)
次はモノクロコピーに色鉛筆で彩色
銀月アパート15号室の内側からの写真のコピー
これは銀月アパート前、めずらしく雪がうっすら白に
地下足袋の足跡
次は Vol.2 この時は僕たち福井に帰っていた頃かな?
北海道の屈斜路湖の想い出話を掲載
1976年の冬
次は Vol.3 これも1976年の冬となっているのがわからない
この号は 僕も 青森の REI も 青森の KWも故郷に帰り
京都に残った人達で作っている。
この号で on は終巻となる
元田中の駅で撮った写真を元に シルクスクリーン4色プリント。
どの号も 表紙はシルクスクリーンで刷られている。
中は リノリュームのハンコや フロッタージュ 手描き
モノクロコピー(当時出始めのころで、まだカラーコピーは無かった)
ガリバン 写真印画紙 デュプロというカーボンコピー
そういうハンドメイドな作り方しかできなかった。
今じゃコンピューターのDTP環境で いとも簡単に できる
でも これらの手作りの小冊子のほうが はるかに味がある。
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さて 生存を証明する為にも わけのわからんブログであってもも
ちょくちょく出さんとイケン
むしろ 簡単なブログ
たとえば 今日は どこそこの まんじゅうを2個食べましたとか
お買い物で xxx をゲットしました
とかを 僕が書きはじめたら こいついよいよヤバいな
と思ってください。
ま 月一回くらいは まだ それとなく生きてます の一行でもよいから
出すか
イカリさんに その日の2件の電話のことを話すと
そういう 年齢になったということヨ と 一言で終わり。
このブログ 銀月のカテゴリーに入れましたが
ぼくの裏ページ でもあるし 別れの準備 のカテゴリーでもある。
では まだ 生きとる ハマG でした。
Posted by hamabeat at 19:47│Comments(0)
│銀月の彼方
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