2020年02月15日
1965-1975年:My Back Pages エピソードー4 /1970大阪
1969年 僕は21歳、 佐々は20歳 だった。
僕は大学4年生、佐々は 短大2年生
次の年は同時に卒業だった
佐々は京都の会社に就職が決まっていたが 僕に当てなぞ無かった
そんなある日 僕の下宿で佐々と二人
遅い朝飯を食べようとご飯をよそっている時だった
”ごめんください” と玄関のガラス戸を叩く人がいた
戸を開けると 佐々のご両親だった
ここにいる筈の無い娘の佐々を見つけると
”おまえは !!”と言い手を上げた
佐々は裸足で外へ逃げていった
娘がいなくなると やおら改まって切り出した。
”あなたのことは全て調べてあります。娘から手を引いてください。
娘は 京都で就職はさせず 卒業後福井へつれて帰ります”
そう 静かに 丁寧に話されました
ぼくは”僕とのことも、就職のことも 彼女自身が決めることではないでしょうか”
と言いましたが はっきりした返事はなく すぐ帰られました。
1979年だったと思う 卒業の前は彼女と一緒に生活をしてました
そんなおり 剣道部の1年後輩のT君が引っ越しとかで
かれの会社の人がトラックでやってきたのを これ幸いと
佐々の女子寮に残してある荷物を取りにいくことをお願いしました
電話で女子寮にいる佐々の友達に荷物を寮の外に出しておいてもらうのをお願いし
会社の人と一緒にトラックを女子寮に乗り着けました
小さな荷物がからげて塀の外に置いてありました
噂に聞いていた きつい顔をした女寮長が出てきましたが
押しのけて荷物を積んで ハイ サヨナラ と下宿に戻った
さて 僕も下宿を出なくてはならず ハテ コマッタ が 行く当て 無し
折も折 いっしょに学生運動をやっていた大阪でバイトしているSSから
いっしょにバイトしないかとお誘いがかかり 急遽 大阪へ引っ越し
会社が用意してくれた下宿に二人で転がり込んだ
大家さんは沖縄の人 で一階に家族で住んでいて
僕たちは二階の四畳半、 会社には佐々と自転車の二人乗り
会社といってもぼろい長屋の自宅兼用
夫婦が親身になって面倒見てくれた。
まるで ”三丁目の夕日” の映画のセットみたいな情景といっていいかな
時は 大阪万博 下宿の大家さんとこ 毎日入れ変わりで沖縄から縁者がきて
毎晩 三線に唄、踊りでにぎやかだった
僕たちは 大阪にいながら 一度も万博には行かなかった
成人式も出ず、大学の卒業式にも出ず、就職活動もせず
日の当たらない裏街道を呑気に歩き続けた
随分後で気が付いたことだが この下宿のすぐ裏のところに
以前留置されていた淀川署があり ある日二人の刑事がやってきて
”お前 こんな近くに住んどったんか” 笑っていた
………………………………………………………..
大阪には約一年住んでいた
大阪で体験したことは 天六(天神橋六丁目)のガス爆発事故
死者79名、重軽傷者420名の大惨事。家屋の被害は全半焼が26戸、爆風を受けての損壊336戸
爆風でドアや窓ガラスが壊れた近隣の家屋は1,000戸以上(Wikipedia)
佐々と二人、すぐそばの商店街にいたが 爆発音は聞こえなかった
救急車と消防車とパトカーのサイレンで気が付き、その道路に出て驚いた。
約1,000枚が敷設されていた覆工板(コンクリート製)のほとんどが
上に乗っていた人間もろとも吹き飛ばされ、多くの犠牲者を出した。(Wikipedia)
その覆工板が爆発で縦に立っていたし、車があちこちで火を噴いていたし
道路の真ん中で 太いバーナーのような火炎が吹き出していた
血まみれの人が運び出されていて 戦場の修羅場のようだった
二次爆発の可能性もあったので急いでその場を後にした
それから三島由紀夫の切腹の話を古本屋さんのラジオで聞いた
どんより曇った日だったと思うが なんだか暗い気持ちになった
よど号ハイジャック事件は 天六の焼肉やさんのテレビ実況でみた
オーナーのおばさんは 朝鮮の方で いつも鍋でコチジャンを作っていた。
この時店の奥のカウンターに座っていた着流しの組長風の上品なおじさんと
この事件のことに付いて話した。はじめは否定的だったが話をしているうちに打ち解けてきて
おじさん 帰りに 僕たちの肩を叩いて ガンバレヨナ といって出て行った。
この年の大阪は万博で沸き返っていた。
僕たちはその年、大阪で生活していたが
一度も万博には行かなかった。
人が多いところには行きたくないし、明るい未来に興味は無かった。
成人式にも大学の卒業式にも行かなかったし、就職試験を受けた事も無い。
何故か 将来のことを 考えた事もなかった。
前のエピソードに書いた ウッドストック、イージーライダー、真夜中のカーボーイ は
この大阪の映画館で見た。勿論 二人で
佐々の家に住所等いっさい知らせて無く、連絡もしなかった
この大阪の一年間は 僕たち二人の 逃避行でした。
この後 京都にカムバック 岡崎のアパートに移ります。
東京タワー、新幹線、東京オリンピック、大阪万博 と
この後 日本はフルスロットルで疾走することになります。
大阪での一年間 色々ありました。
僕たちの初めての生活は 貧乏ながら それなりに新鮮でした
近くに新しくできた 今風の トングとトレーでカウンターにもっていくスタイルのパン屋さんで
クロワッサンを買い サイフォンコーヒーで淹れたてのコーヒーを飲みながら食べた
大阪にも 大阪にしかない 思い出があります。
この年だったか 京都に行ってからだったか忘れたが
梅田に 紀伊国屋書店ができて よく入り浸ったが
ぼくはもっぱら 古本屋さん巡り 古い本が好きだったし いまでもそれは変わらない
紙の黄ばみや衣魚、古本のあの 匂い が好きだし 古い活版の活字も好き
長い時間が変化させてきたあの古感がいいのです。
新本のあの印刷のインクの匂いもすきではありますが
さて おおさか フェアウエル ということで お別れになります。
次回 エピソードー5 は 予定は未定
気が向いたら そのうち書きます 期待はしないでください
では
僕は大学4年生、佐々は 短大2年生
次の年は同時に卒業だった
佐々は京都の会社に就職が決まっていたが 僕に当てなぞ無かった
そんなある日 僕の下宿で佐々と二人
遅い朝飯を食べようとご飯をよそっている時だった
”ごめんください” と玄関のガラス戸を叩く人がいた
戸を開けると 佐々のご両親だった
ここにいる筈の無い娘の佐々を見つけると
”おまえは !!”と言い手を上げた
佐々は裸足で外へ逃げていった
娘がいなくなると やおら改まって切り出した。
”あなたのことは全て調べてあります。娘から手を引いてください。
娘は 京都で就職はさせず 卒業後福井へつれて帰ります”
そう 静かに 丁寧に話されました
ぼくは”僕とのことも、就職のことも 彼女自身が決めることではないでしょうか”
と言いましたが はっきりした返事はなく すぐ帰られました。
1979年だったと思う 卒業の前は彼女と一緒に生活をしてました
そんなおり 剣道部の1年後輩のT君が引っ越しとかで
かれの会社の人がトラックでやってきたのを これ幸いと
佐々の女子寮に残してある荷物を取りにいくことをお願いしました
電話で女子寮にいる佐々の友達に荷物を寮の外に出しておいてもらうのをお願いし
会社の人と一緒にトラックを女子寮に乗り着けました
小さな荷物がからげて塀の外に置いてありました
噂に聞いていた きつい顔をした女寮長が出てきましたが
押しのけて荷物を積んで ハイ サヨナラ と下宿に戻った
さて 僕も下宿を出なくてはならず ハテ コマッタ が 行く当て 無し
折も折 いっしょに学生運動をやっていた大阪でバイトしているSSから
いっしょにバイトしないかとお誘いがかかり 急遽 大阪へ引っ越し
会社が用意してくれた下宿に二人で転がり込んだ
大家さんは沖縄の人 で一階に家族で住んでいて
僕たちは二階の四畳半、 会社には佐々と自転車の二人乗り
会社といってもぼろい長屋の自宅兼用
夫婦が親身になって面倒見てくれた。
まるで ”三丁目の夕日” の映画のセットみたいな情景といっていいかな
時は 大阪万博 下宿の大家さんとこ 毎日入れ変わりで沖縄から縁者がきて
毎晩 三線に唄、踊りでにぎやかだった
僕たちは 大阪にいながら 一度も万博には行かなかった
成人式も出ず、大学の卒業式にも出ず、就職活動もせず
日の当たらない裏街道を呑気に歩き続けた
随分後で気が付いたことだが この下宿のすぐ裏のところに
以前留置されていた淀川署があり ある日二人の刑事がやってきて
”お前 こんな近くに住んどったんか” 笑っていた
………………………………………………………..
大阪には約一年住んでいた
大阪で体験したことは 天六(天神橋六丁目)のガス爆発事故
死者79名、重軽傷者420名の大惨事。家屋の被害は全半焼が26戸、爆風を受けての損壊336戸
爆風でドアや窓ガラスが壊れた近隣の家屋は1,000戸以上(Wikipedia)
佐々と二人、すぐそばの商店街にいたが 爆発音は聞こえなかった
救急車と消防車とパトカーのサイレンで気が付き、その道路に出て驚いた。
約1,000枚が敷設されていた覆工板(コンクリート製)のほとんどが
上に乗っていた人間もろとも吹き飛ばされ、多くの犠牲者を出した。(Wikipedia)
その覆工板が爆発で縦に立っていたし、車があちこちで火を噴いていたし
道路の真ん中で 太いバーナーのような火炎が吹き出していた
血まみれの人が運び出されていて 戦場の修羅場のようだった
二次爆発の可能性もあったので急いでその場を後にした
それから三島由紀夫の切腹の話を古本屋さんのラジオで聞いた
どんより曇った日だったと思うが なんだか暗い気持ちになった
よど号ハイジャック事件は 天六の焼肉やさんのテレビ実況でみた
オーナーのおばさんは 朝鮮の方で いつも鍋でコチジャンを作っていた。
この時店の奥のカウンターに座っていた着流しの組長風の上品なおじさんと
この事件のことに付いて話した。はじめは否定的だったが話をしているうちに打ち解けてきて
おじさん 帰りに 僕たちの肩を叩いて ガンバレヨナ といって出て行った。
この年の大阪は万博で沸き返っていた。
僕たちはその年、大阪で生活していたが
一度も万博には行かなかった。
人が多いところには行きたくないし、明るい未来に興味は無かった。
成人式にも大学の卒業式にも行かなかったし、就職試験を受けた事も無い。
何故か 将来のことを 考えた事もなかった。
前のエピソードに書いた ウッドストック、イージーライダー、真夜中のカーボーイ は
この大阪の映画館で見た。勿論 二人で
佐々の家に住所等いっさい知らせて無く、連絡もしなかった
この大阪の一年間は 僕たち二人の 逃避行でした。
この後 京都にカムバック 岡崎のアパートに移ります。
東京タワー、新幹線、東京オリンピック、大阪万博 と
この後 日本はフルスロットルで疾走することになります。
大阪での一年間 色々ありました。
僕たちの初めての生活は 貧乏ながら それなりに新鮮でした
近くに新しくできた 今風の トングとトレーでカウンターにもっていくスタイルのパン屋さんで
クロワッサンを買い サイフォンコーヒーで淹れたてのコーヒーを飲みながら食べた
大阪にも 大阪にしかない 思い出があります。
この年だったか 京都に行ってからだったか忘れたが
梅田に 紀伊国屋書店ができて よく入り浸ったが
ぼくはもっぱら 古本屋さん巡り 古い本が好きだったし いまでもそれは変わらない
紙の黄ばみや衣魚、古本のあの 匂い が好きだし 古い活版の活字も好き
長い時間が変化させてきたあの古感がいいのです。
新本のあの印刷のインクの匂いもすきではありますが
さて おおさか フェアウエル ということで お別れになります。
次回 エピソードー5 は 予定は未定
気が向いたら そのうち書きます 期待はしないでください
では
Posted by hamabeat at 08:10│Comments(0)
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