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2014年01月23日

姉の死



お正月の1月3日の午前4時16分に電話がかかってきた

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僕は4人兄弟の末っ子の長男です

ということは 姉が3人いるということになります

一番上の姉は 結婚してなく ということは子供もいなく

中学校の教師を定年退職し

大阪府堺市に一人で住んでいました。

以前のブログにも書きましたが

2011年3.11の東北大震災のあとの4月4日に

脳梗塞で倒れ 4日後に発見されました

もうダメかと思い 葬儀社に勤めていた大阪のKに連絡し

葬儀の準備までしました

姉が前もって準備していた肖像写真がありましたから

それを 遺影用にKに渡し 近くの葬儀場を捜したりもしました

しかし 奇跡的に少しずつですが 意識が戻り

結局3ヶ月後に福井の病院に連れて帰りました

左脳がダメで 右手右足が効かず 車椅子

こちらの言っていることは解りますが 喋ることも出来ず

介護されないと生活は出来ない状態でした

リハビリを続けていましたが いっこうに良くはならず

去年の12月頃 急に体調を崩し

介護付きの病院に入りました。

姉は 食事を拒否するような仕草もしていましたから

死にたいか と聞くと ウンと頭を縦に振りましたが

明くる日は 生きたいかと聞くとまた ウンと頭を縦に振りました

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僕が勤めている会社の社長のお父さんは

随分前に90歳すぎで亡くなりました

なんとか 4本足の杖をついて歩けるあいだは

仕事している僕のとなりに来て座り

よく こう言っていたものです

”なあ 浜やん なかなか死なれんもんやのう

簡単に死なれんのや 死んだらあかんのやし

かといって 死にとうはないんやし

なあ どうしたらいいと思う”


そんなこと言わんと 長生きしてよ と笑いながら言う以外に

僕には 答える言葉はありませんでした

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東北の寒村にはよくあった話だそうですが

先の短い年寄りのおばあさんには食事を与えなかったそうです

勿論 今のように食べるものががいっぱいあるのにというのではなく

皆の食べる食料もないような状況では 働ける人間が

なんとか生きていく為には そうするしかなかったでしょう

僅かの食べ物をどう分けていくかということになります

社会的に見れば 外的装置によって延命されているお年寄りは

若者の食料とお金を奪っていることになります

いたずらに 生だけを装置で引き延ばして

平均寿命が上がったと喜んでいるのも如何なものか

平均寿命を超えて生きんと損やという

損と得のあいだに引かれた数値のように思えます。

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食べなければ 死ねる という 本人にとって最後の手段

厳密に言えば 自死 ということになるもかもしれないが

じぶんの肉体を物理的に壊して死んだ訳ではないし

誰かが故意に死へ追いやった訳でもない

でも 点滴や輸血や薬などの 外的延命措置も

拒否しなければ いつまでも生かされることになってしまう

そう考えると 自分の意志だけではそう簡単には死なせてくれない

死の尊厳さえも削ぎ落とされて ただただ生かされていくことになる

生命を可能な限り生かしているのだと言うかもしれないが

苦痛をただただ伸ばしているだけなのかもしれない。

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カフカの言葉ですが

<人間に下された刑の宣告は生であって死ではないのです>

誰かが書いていましたが

<死ねるって 素晴らしいことじゃないか>

不老長寿を目指す人は多いけれど

いつまでも生きていて死ぬことができなかったら

生きることは 拷問のようなものであると言える。

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さて 前置きが長くなりましたが 最初の一行に戻ります

お正月の1月3日の午前4時16分に電話がかかってきました

そのとき僕はこんな夢を見ていました

二番目の姉と三番目の姉と僕と三人で

病院か学校の 長い廊下の片隅で丸椅子にすわって

大きな声で話をしていました

僕の後の小さな部屋に イカリさんが寝ていましたが

話し声がうるさいのか電気を点けたり消したりしていました

もう一人 男の人がいましたがその人が誰か

そして 皆で何を話していたのかは解りません

入院中の一番上の姉の心臓が停止しています との連絡が

その夢を切断しました

すぐ行きます と答え 用意して外に出た

この時期には珍しく 雪も無く 星空がきれいで 

路面はうっすらと氷っていました

20分程で山の上の病院に着きました

病室では全身が白くなりはじめ まだ少し暖かい姉が横たわっていました

医師が立ち会いのもと脈と瞳孔を確認し

午前4時50分に 死亡を告げられました


2011年4月に 脳梗塞で倒れてから 3年近く

一番つらく悔しかったたのは本人だと思います

やっと 楽になったんだと思い 

ご苦労さんでしたと 手を合わせました。

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1月15日PM11時頃 こんどは寝入りばなに枕元の携帯が鳴る

ふとんの中でモゾモゾしているうちに切れる

名前が出ていないので誰か解らないが かけ直す

もしもしの声で 誰かは解った

姉が堺で倒れた時に葬儀の打ち合わせをした K

<あのとき預かったお姉さんの写真を返そうと思って

送るんじゃなくて 手渡しで> 
 と 

実は姉は1月3日に亡くなったよ というと

<そうか 亡くなったのか……

今年の年賀状を見て 写真を返さなあかんおもて

じつは ボク 肺がんなの>


え 転移はしてないの? 治療は?

<転移はしてないらしい。 抗がん剤を飲んでいる>

治る見込みは?

<ないらしい…>

あと どれくらいって言われてるの?

<聞いていない…>

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<時々 ササ(イカリのこと)のことをおもうんよ

いつも ブーツ履いて 長いコートを着て長い髪を垂らしている

そして いつも決まって 後姿なの>

(きまって ウシロスガタ というのは何故だろう)

(Kは素性は知らないが 母性愛に飢えていたし

女性に甘えるのがうまかった

京都にいる時は よく下宿に遊びにきたし

ササはKを随分可愛がっていた)

<少し暖かくなったら 写真を持っていこうと思う>

わかったよ いつでもおいで

1日1日を大事に生きろよ

で 電話は終わった

隣に寝ている ササに 内容を説明してるうちに

涙が出てきた
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前に ササに どこか行ってみたいところ アル?

と聞かれて

さあな テ ン ゴ ク くらいかな?と答えて

二人で笑ったことがある

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僕は何度も気を失ったことがあり

その時に気を取り戻していなかったら

そこで僕は死んでいたんだと いつも思う

でも まだ僕は死んでいない

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ぼくは 今 <チベットの死者の書> を読んでいます

死を学ぶ書 <バルド  ソドル>

このことは またのブログでご紹介します。

では


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Posted by hamabeat at 19:34│Comments(0)別れの準備
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