毎年 3月11日になると テレビの特番があり 追悼式が行われています。
長田弘の <なつかしい時間> で繰り返し語られていることは
故郷 記憶 時間 についてです
<故郷は 遠きにありて 思ふもの・・・・・・> という石川啄木の歌がありますが
長田弘は <故郷はもはや、 「そこにある」ものでもなければ「遠くにある」ものでもなく
いつしか どこにもない場所 のようになりました。
その意味では、わたしたちにとって故郷と言えるのは、 過ぎ去った時間 のほかにない
といっていいのかもしれません> と言っています。
僕は 18歳から27歳まで約10年間 京都で暮らしました。
その10年間に5回下宿を変わりました。
その5回の下宿での間取りや生活や友人はよく憶えていますが
故郷というものではなく どちらかというと 思い出というようなものです
京都の10年間をはさんでの前後 特に前の13年くらいが ぼくの故郷と言えます
今現在も同じ土地に住んでいますが 町内の区割りも変わり
自分の家もよその家も全て立て替えられていて
小さな頃遊んだ路地も 溜まり場もなくなり 裏山も大きく削られ
山の向こうの畑も田んぼも無くなり、住宅ができお店ができ運動公園ができと
大きく様変わりしていて むかしの面影なぞみじんもありません。
どこも同じように そのままの姿で残っているところはごく僅かだと思います
そういう意味で 故郷はもはや <どこにも無い場所>になっており
真の故郷は 個々の <過ぎ去った時間の記憶の中> にしかありません。
僕が 少年の頃に育った家の間取りや廻りの小道や物置や鶏小屋は
僕の記憶の中に根づいていて 夢の中に何度も現れてきます。
だから 僕の故郷は 記憶の中と夢の中 にあります。
故郷はなにも小さい頃育った土地や風景だけでなく
今の自分が育ち、成長し、教わって来た土壌のようなものとすれば
時代、世代、文化、友達、本、音楽、 なども 故郷ということができます。
ぼくが15歳から25歳くらいまでの10年間はほぼ京都時代です。
ちょうど 1960年代
この時代は ぼくにとって故郷と呼べる時代であったと思います。
自分にとっての 感性やものの考え方の基礎はこの頃作られたと思います
長田弘は 見えるもの、聞こえるもの でなく 見えないもの、聞こえないもの
言葉じゃなく 沈黙 が大事なんだと盛んに言っています。
3.11 から7年 復興は目に見える形で進んでいます
土地のかさ上げができ 家が建てられ アスファルトの道路ができています
でも 見えないものはどうでしょうか
3.11 のその日 かろうじて避難できた人々の目の前で
自分達の家、商店街、工場、施設 そればかりか
自分達の 子供達、親、友人、先輩、仲間達の多くを
海が 連れ去り 奪っていきました。
記憶の拠り所となる全ての人、物 を一瞬にして失ったのです。
過ぎ去った時間の記憶の中 にしか 故郷や人々の面影はありません。
新しく作られていく 目に見えるものの形だけが復興ではありません
目に見えないもの テレビカメラに映らないもの
人々の 想いや、心の傷、失われた時間 そういったことの復興をなおざりにして
復興は着実に進んでおります、帰還困難区域にも早く戻れるように努力します
という メッセージは どこか空々しいとしか言いようが無い。
ぼくの 一番上の姉は 2011.3.11 のほぼ1ヶ月後に脳梗塞で倒れました。
ですから 3.11 の報道があるたびに 姉のことを思い出します。
長田弘は 福島の生まれです。
2011.3.11のあと 5月に書かれた文
多くの行方不明者が捜し出され 身元が確認出来て
行方不明者の数の中から一人の名前を持った人として
救い出されたことを こう書いています
<人はみずからその名を生きる存在なのである。
じぶんの名を取りもどすことができないかぎり
人は死ぬことができないのだ>
7年経って いまだ 自分の死を全うしていない方々が多くいます。
そして 7年経って 切り捨てが始まっているように思えます
それによって いまだに仮設住宅に住み 仕事も無く
収入の無い人々の暮らしは さらにきびしいものになります。
7年も経って 仮設住宅? 仮設? 7年もの歳月が過ぎているのに いまだに仮設?
そして数年後に 帰還困難区域が解除されました はい帰宅して下さい。
さて 10年もの間放置され 荒れ果て 野生動物の住処になってtる自宅に
帰れ というのでしょうか? 年老いた体で
行政は 何を考えているのか全くわからない
怒りをおぼえる。