盲目のことば

hamabeat

2008年02月28日 18:35

テオ・アンゲロプロスの映画で衝撃を受けたのは

まず、撮影手法です。




ハリウッド的映画が氾濫し、そういう手法に慣れている人には

退屈な映画かもしれませんが。

短いシーンを切り繋いで短時間にスピーディーに

物語を進めていくのがハリウッド的映画とすれば

彼の映画は 長いワンシーンを全くカットせずに

持続的に情景をパンしていきます。

ズームやスローといった特殊効果は使いません。

勿論デジタル処理や加工といったことも一切しません。


まるでその場に私たちが居合わせて

ずーっとその物語を自分の目で見て

一緒に体験しているような 

そんな不思議な感じなのです。


私たちの目にはズームやスローといった機能はなく

首や体をを振って見渡したり、自分が歩いて近づいていって

覗き込んだりといったことができるだけです。


彼の映画では 

カメラは人間の視点と人の速度に基づいて

ゆっくりと動いていきます。


私たちの視点にはカットというのも存在しません。

時間的持続のなかで切れ目なく眺めていくものです。


彼の映画には特に美しい風景や感動的な場面があるわけではありません。

なのに何故、彼の長い映画を

ずっと飽きることなく見続けることができて

こんなにも感動するのだろうかと考えます。


切れ目のない持続的なシーンの中に

内的な何かを感じてしまうことでしょうか。

セリフはすくないものの 

言葉が詩的で比喩に満ちています。


一冊の詩集を静かに読んでいるような気がしますし

自分の内部を静かに彷徨っているような気さえします。

行間が海であるならば

その海に自分を浮かべることができ

自分の意識を映像の中に溶け込ませるかのような

目眩を感じます。


彼はインタビューの中で語っています。

リルケやパウル・ツェランの詩が好きだと。

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パウル・ツェラン 雪の区域(パート)
Paul Celan Schneepart


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みずからを延期するな、 おまえよ。



あなたは今日

何に対しても、沈黙していてください。




きみの夢を進水させよ、

その夢の中にきみの靴をくるみこめ、



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パウル・ツェラン 死のフーガ

Paul Celan Todesfuge

ことばの格子 Sprachgitter
より





ぼくらは

手のひらだった。

ぼくらは闇をからになるまで掬った。ぼくらは見いだした。

夏を登ってきたことばを-------

「花」ということばを。

「花」-------ひとつの盲目のことば。




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沈黙するための言葉 あるいは 盲目のことば

石原吉郎の詩とつながるものがあり

テオ・アンゲロプロスの映画にも読み取ることができます。


テオ・アンゲロプロスの映画

詩を読むように 映像を読み開き

沈められていたイメージをめくり

盲目のことばに耳をかたむける

そんな感じで見ています。


他の映画を見ても感動しなくなったこと

決して不幸なことではありません

ぼくにとって。


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