早く家(うち)へ帰りたい (単行本)
高階 杞一 (著), 望月 通陽 (イラスト)
この 高階 杞一 さんの 詩集
1994年に 息子 雄介君を 四歳の誕生日を前に亡くし
1995年の初夏に書き留めた 詩集
今 読んでも 切なくて 美しくて 悲しい
たぶん 普通に産まれ 育って 大きくなっていった子供達
大きくなれば そのうち 忘れちゃってるだろう 一番輝いているときを
亡くし 刻むしかない おとうさんの 子供への 切ない想い
この詩集の 最後の詩
<永遠> という タイトル
<パパ なあに?
あれは 一方通行
こっちから あっちにしか いけないんだよ
あれは 追い越し禁止>
雄介君は 一方通行 で 追い越し禁止 で ゆうターン禁止の道路を
青信号 手を挙げて 独りで 渡っていってしまったんだろう
たった ひとりで お お だ ん ほ ど う を
この子 は どこを向かって 横断 したんだろう
どこへ? 永遠
永く そして とてつもなく 遠い 国
永 遠 ?
サイモンとガーファンクル の
<早く家に帰りたい>に重なって書かれた詩集です
ディラン が No Direction Home のビデオのなかで さかんに言っていた言葉
い え に帰りたい
No Direction Home という のは 帰る家も無い と言う意味ですが
はて 彼にとって いえ とは 何なのか と 思います
妻や子供が待っている 暖かい家庭とか では 無いと思います
ほんとうの 安らぎ は 死 なのかもしれないですが
ある 戦争体験の 90歳近い ひとが ある番組でつぶやいていました
<早く 死にたいよ・・・・・・
一度死んだら 二度死ぬ事は無いからな>
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今年 3月に 3人目の孫が生まれ すくすく と 成長しております
6ヶ月を過ぎる頃になりますと それなりに 眼の焦点も合い
おぼろげながらも 脳内地図も出来てきています
寝たきりの頃と違い トカゲのようにハイハイしだすと
世界も広がり 眼につく物事は未知と不思議に満ちていて
その 眼差し の 純な美しさ に 思わず 見入ってしまいます
その 初めて出合う 世界の おどろき
口に入れて ナメル それは 未知なる世界を 取り入れる 儀式 のようなもの
そうして 広い 世界 を なめ尽くして 理解していく
まだ 深さ という 縦のベクトル ではなく
平面の 2次元ベクトルを 限りなく進む
コロンブス の 大航海 大発見 のように
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昨日の夜 風邪気味で何となく重い夢を見ました
大阪で 延岡の友達と会い 福井にやっと帰ってきました
重い荷物を沢山背負って 駅からバスに乗って
停留所を降り なんとか 足を引き摺りながら帰ってくる夢でした
バスも停留所も そこからの道も そして帰ってきた家も少年のころのままでした
ぼくは 沢山夢を見ますが 小さな頃の家や道や風景がほとんどで
現在の 新しいといっても 50年以上経つ家での夢は見た事がありません
少年の頃に住んで暮らしていた うち が 自分の ホーム のような気がします
今は得ることのできない ある 永遠の安らぎ のようなものかも知れない
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<うち> は それこそ 内 と 外 であり
本来 世間や学校や国家 からの圧力から防御された
シェルターのようなものですが
シェルターも逆になれば 外から隔離された ドメスティックバイオレンスの囲いにもなります
最近の 暗い悲惨なニュース は 親が子供を殺めるというニュースが多すぎますね
いえ は そこでは 逃れなれない 力も頼るべきものも無い
小さな子供にとって 過酷な強制収容所になります
自分達を 守ってくれるべき 親達が
自分達の 殺人者 となれば 彼らは 救いというものが無くなるではないか
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<早く家に帰りたい>
ぼくは
早く家に帰りたい
時間の川をさかのぼって
あの日よりももっと前までさかのぼって
もう一度
扉をあけるところから
やりなおしたい
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<時間の川をさかのぼって あの日> というのは 息子 雄介君 が 亡くなった日 のことでしょう
子供や愛する人をいきなり亡くした人は みな そう思う
その日のまえの 何もなかった 日々の 日常を
その 笑顔で ドビラを あけて
帰ったよ xxx 君 楽しかった? という
何でもない ごく 普通の 日常の その 出来事が
普通じゃない 至高の 生 に 変わっていく
その反動で ワタシ は 悔やみ に 落ち込んでいくことになります
その 扉は 子供 から 閉ざされています
残されたものに 開ける事は できません
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最近 多いのは 学校内の 虐めによる 少年の 自殺 です
友達 によるものが多いですが
教師による虐待も多くなりました
その生徒個人の感情に 向き合う事なく
申し訳ありませんでした (でも わたしだけの せいではありません)
と ただ社交辞令で頭を下げる
そんな 数秒の ご挨拶で かたのつく ことで ありましょうか
一日一日 地獄の思いで 何年も悩み続けてきた 少年少女の思いを無視して
自分だけの責任ではありません 申し訳ありませんでした という
確かに 自分だけの責任ではありません であれば
どこに 責任があるのか を 追求しようともしない
謝れば そこで 済む そんな ものでしょうか
時が過ぎれば 忘れ去られます
忘れて欲しい と 関わった人達は その場しのぎで 頭を下げます
忘れられない 愛する人を 亡くした 人達は
いったい どうなるんでしょうか ?
そして 若くして死を選んだ 亡くなった 子供達 の魂は
いったい どこへ行けば 安らぎを得られるのでしょうか
いっそ 死んだ方が 楽になれる という この社会環境
死を 選ぶ 若者達 が 沢山いて
それに 眼をつぶっている 多くの教師 が いる
そんななかで 見た この 詩集
なかなか 手に入らない 本 ですが
是非 読んで下さい
亡くなった 子供と
失った 子供と共有した時を 発掘するしかない 親の 美しさと 悲しさを
その日 に 時が止まってしまった 人達 のため
忙しく カリキュラムを進めるしかない 教師達よ
いちど 時を 止めたまえ