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2021年01月01日

2021お年賀





新しい年になりましたが 決しておめでたくはありません。

2020年は大変な一年でした。

誰にも想像できなかった見えない敵が襲ってきました。

それも世界中の人たちに。国も宗教も関係なく。

男女であれ、金持ちであろうが、年齢も関係なく

全ての人に平等に襲ってきました。

見えない敵は 昼も夜も関係なく常に増え続けます。

なんの目的も持たず、全ての人間に無差別に黙って襲ってきます。

人の細胞に取り付かない限り生きていくことも増えることもできません、

完全な パラサイト といえます。

彼らはただ細胞分裂を休みなく繰り返し増え続けますが

もっと強くなろうとかいった目的を一切持っていません。

ただ、コピーの精度が悪く、コピーミスを起こします。

そのなかで偶々新しい環境に生き延びたものが拡大していきます。

それがやっかいな変異種というやつです。


自分で生きれないものは生かしてくれるものを利用します。

じぶんで動けないものは動くものを利用します。

見えない敵は人のなかに入り込み人の動きを利用します。

この地球上で最も高速に広範囲に移動する乗り物は人間です。

見えない敵はパスポートを持たずタダで飛行機や電車に乗り移動します。


予想どうり第3波がやってきて感染者が急激に上がり始めた時に

政府は何の対策も打ちませんでした。そして未だに強い声明を出していません。

それどころか Go To Travel という感染を拡大させる方策を打ち出しました。

散々国民やマスコミに批判された結果、国のトップが紙面を早口で棒読みで

Go To Travel 一時停止の声明を事務的に読み上げていました。

国民に納得させ感動させるくらいの演説ができないようでは

一国のリーダーとはいえませんよね。

………………………………………………………………

世界的ベストセラー ユヴァル・ノア・ハラリ著”サピエンス全史 上下”を読みました。

<現在の我々の祖先であるアフリカで誕生したホモ・サピエンスが

何故 同種のネアンデルタール人やホモ・エレクトスじゃなく世界に拡がっていったのか?>

その答えを <物語> というキーワードで読み解くことができます。

今までの歴史書では語られなかった視点がメインテーマです。

ホモ・サピエンスだけが獲得した <物語> とは

最初は神話だと思いますが そういう共同幻想を作り、それを共有することで

皆が一つにまとまり、協働で猟をし、敵に打ち勝つことで勢力を拡大していった。

それは狩猟採集の次の農耕社会に移行してからも受け継がれ

<物語>を深化拡大していくことになります。

国家、帝国、宗教、思想 から始まり 貨幣そして現在の仮想通貨に至るまで

それらは全て 実態のない<物語>であるとハラリ氏は説明しています。

現在のインターネットの世界も 実態のない<物語>と言えます。

実態のある物をネット通信で送ることはできません。

<物語>とは 情報 といってもいいかもしれません。

インターネットで世界中が情報を共有することができるようになりました。

更にグローバル化は加速していくでしょう。

ただ、ハラリ氏は<このように社会が豊かになったが果たして人間は幸せになったが?>

そして <否>と答えています。

<農耕牧畜社会になって狩猟採集社会になって幸せになっただろうか?>

<農耕定住により、人々は麦や米などを栽培していると思っているが

実は、麦や米が人間を家畜化しただけであり

結果、その格差が生まれ戦争が起きるようになった。>と言っています。

そしてこれから人類はAI、ロボット化、肉体改造、遺伝子操作等によって

神になろうとしている。

続編、ホモ・デウスに受け継がれていきます。

『サピエンス全史』は私たちがどこからやってきたのか? 

『ホモ・デウス』(人・神)は私たちがどこへ向かおうとしているのか?

警鐘の書でもあると思います。

では また
  

Posted by hamabeat at 01:01Comments(0)お年賀

2020年10月15日

別れられない準備

奇跡の復活という訳ではありませんが

随分長い間サボッテいたこのブログ

久々の登場となります。

あまりに長い沈黙状態なので

皆 僕が死んだんじゃないかと思っていたようで

それとなく 遠慮深く 電話がかかってくるようになりましたが

でもネ まだ 生きています。

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今、福井の日赤に入院中です

今年4回目の抗癌剤治療の途中です。

コロナのせいで 通院を控えていたのがアダになり

しかも3回目の内服による治療が効をそうさず

小さくなっていた癌細胞が大きくなってしまい

リンパに転移した癌が声帯の神経を圧迫しカスレ声になってしまった

このカスレ声はもう直らないといわれました

それで今年の始めに治療して効果のあった点滴薬による治療が再度始まったという訳です

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この前 以前のブログに書いた 京都のレイコちゃんから電話がありました

こちらのブログです。

彼女 鬱病は10年くらいで抜けたそうで

現在、生活保護で生活しています

京都にいた頃同じ銀月アパートに住んでいた人が ぼくのブログを見て

僕のガンのことを知り電話してきたわけです。

そして京都の漢方のお医者さんを紹介してくれて

そこからお試しと思い 一週間の漢方薬を送ってもらい飲んでいましたが

その後すぐ現在の入院になってしまいました

漢方は一週間くらいで効果の程はわかりませんよね

その後まもなくして また彼女から電話がありました 

”浜やん 私、癌になってしもうた 大腸癌や

入院して手術せなあかんねん 心配やわ”


僕は自分の体験を話して なんとか彼女の気持ちを落ち着かせました。

手術も終わり そろそろ退院のころと思われます

彼女 前回の入院の時に電話が無く苦労したらしく

とうとう スマホデビューしたのは良かったのですが

当然のことながら 操作が全く解らないと

固定電話からウチの固定電話に電話がかかってきました

スマホの番号を聞いて こちらから電話するからと言い

スマホに電話しましたが いつまでたっても 出てこない

固定電話に電話すると 電話は鳴っとるけど どうしていいかわからん という

スマホには 受話器というもが無い かってにピコピコ鳴ってるけど

スマホを持ち上げても通話はできない

ともかく だれかに聞いて操作出来るようにしてくれ と言うほかなかった

その後なんとか基本的な操作はできるようになったが

まだまだ 時間がかかりそうだわ

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延岡のユウジンから蜂蜜が送られて来た

この蜂蜜 一口舐めてみたが 実に旨い

甘さがナチュラルで純粋なおいしさにビックリ

お礼の電話をすると いつも送ってもらってる イノシシの肉の狩猟者

その人の採取した蜂蜜だから本物ダヨ と聞かされた

その電話の時 なんだかザワザワした雰囲気なので聞いてみると

いま バンド組んで 練習しちょる という

最近一緒にやってる ギター弾きがなかなか良くてネ

という話をしとったが 今日午前中電話がかかってきた

いつも 焼酎を浴びて ロレツの廻らん電話をしてくる彼が

平日の午前中に シラフでかけてきた

”じつは この前の電話んとき 一緒にギター弾いとったやつ

動脈瘤が破裂して意識不明になり死んじゃったんや”


その連絡があって 彼は頭が真っ白になり真空状態になったに違いない

彼の電話に 返す言葉が無い

聞くと彼より一つ年上の 66歳 


誰かがどこかで言ってたな

人の死に対する礼儀は 沈黙 である と

電話の向こうで 彼は泣いていたに違いない

急死の人に 別れの準備 など無い 

何も告げず 何も持たずに いきなり向こう側に行ってしまう

残されたものは 思い出し 悔いる日々 が始まる


僕の息子の若ヨメが言っていた

”ジイチャン もう 3回も死んだから もう 死なんわ”


このブログのカテゴリーは ” 別れの準備 ”

でも僕みたいに 別れられない準備 というのもあるかも

以前のブログ ”ベトナム帰還兵”

最後にブルースが静かに語る

(死を心待ちにしている。生きるのは拷問のような苦しみだ。

弱い人間じゃないから自殺などは考えないが

死が訪れたら喜んで迎えるだろう。)


僕は 拷問のような生きる苦しみは味わったことはないが

死は 静かに受け入れます

もう何も考えなくていい ゼロの状態に安らぎを感じます。

では またネ
  

Posted by hamabeat at 16:50Comments(0)別れの準備

2020年05月13日

200513 見えない敵 4

見えない敵 は 潜んでいます

世界的に ロックダウン解除 規制緩和 に向かっています

この日本も そろそろ という感じです


コロナの特番が多く ドキュネンタリー番組をたくさん見ました

こちら 福井でも 関連ニュースで こんな報道がありました

大野の奥 九頭竜湖の近くに 面谷鉱山という胴の発掘所があったそうです





大正時代 その 面谷集落は 1918年のスペイン風邪 に襲われ

一ヶ月で90人が亡くなり その後 安い銅の輸入による下落もあり

その村は消滅したそうです。

また別の番組では スペイン風邪 により

世界の三分の一の人が感染し、4000万~一億の人が亡くなったそうです。

第一次世界大戦のこともあり 死者数はアバウトな数になっています


歴史的にも 今回のコロナ危機にしても 学ぶべき資料はたくさんありました

そして 日本では武漢からのチャーター機 そして クルーズ船がありました

そして その時の具体的な教訓も生かされず 対応は遅れました

他の諸外国に比べれば かなり低く抑えられたと政府は言うでしょうが

あの 2~3日に急上昇した時に何故いち早く緊急事態宣言を出さなかったのか

まだ大丈夫 まだ大丈夫と引き延ばしていた時

僕は 一日 そして 一日 遅れることにイライラしていました

あの上昇カーブが急に下がることなぞ奇跡であり

倍々で上がっていくことは誰が見ても解っていた筈なのに

発令が遅れてはいても 確かに 諸外国より被害は少なかったかもしれないが

でもあの時に決断して発令していれば かなり感染数は抑えられていた筈だし

医療環境ももう少し余裕を持てたし そしてここまで経済的な打撃はなかった筈です

政府は 対応の遅れを反省もせず 責任を取ろうともしない


一つには オリンピックのことが大きかったと思う

絶対無理でしょうと多くの人たちが思っていたにもかかわらず

国と東京都は必死でオリンピックを実行しようとしていました

結果 延期と決定を受け 急遽コロナ対策に切り替えた感があります

そして 緊急事態宣言 は4月7日 から一ヶ月と宣言しました

僕の勘繰りかもしてませんが 五月の連休明けの5月7日まで と 合わせるように

4月7日まで引き延ばしたように思ってしまいます

この間の 政府の無能さには ただただ 腹立たしさしかありません

それは なにも 僕だけが感じていたことではないと思います


ある番組でニューヨーク在住の女性ダンサーの方が言っていました

街がロックダウンして 思ったことだそうです

<近くが遠くなり 遠くが近くなった>と

わかりますか?

近隣の人たちとはおしゃべりも挨拶もできなくなり

ネットで 遠くの人とは テレビ電話で繋がるようになった ということです

今回のコロナのお陰で はっきりしたことがたくさんあります

特に 人口密度の高い 都市圏での感染者数が格段に多いことです

今回のコロナにしても 災害にしても 人口の集中は大きな被害をもたらします

一極集中 中央集権化から 分散型 地方分権化 に移行していく必要ありです

それを保証するのが リモート化 AI IT ロボット化 だと思います。

もともと インターネット は 戦争の危機からの回避から生まれたものです

一極集中は攻撃されると全てが消滅してしまうため

データを 分散化し 共有し 守るためにネットワーク化 したのが始まりです

現在 皆が幅広く利用しているインターネットは 危機管理から生まれたものです


アフターコロナには おおきなパラダイム・シフトをせざるをえません

社会のあり方も 経済 教育 医療 インフラ 災害 から みじかな仕事にいたるまで

危機をいかに回避していくか そしてそのための準備をしていくかにかかっています

局地的な災害はたくさんありましたが 今回のコロナはグローバルな災害です

そして 国も国境も人種も性別も宗教も年齢も貧富の差も 全く関係なく

極めて 平等に襲ってきますし 逃げ場はありません

今年の秋には コロナの第二波が 更に強くなって襲ってきます

無くなることはありません。 今回の教訓をいかに共有し

対応の失敗を素直に認め 修正し 次の波に立ち向かうしかありません

そして 自分たちにできることは 自分たちの生活を守るために

どうするか をよく考えておくしかありません


ぼくは 2年間 金沢の病院に入院していたので

医師や看護師たち そして 病院の従事者の人たちには 特別な感情をもっています

いまも 闘い続けている医療関係者の方々に 感謝しています

でも 自分のことですが ちょうど時期がずれていて 助かったと思っています

今は コロナのみならず 事故や怪我やちょっとした病気にもかからないように注意しないと

医療に迷惑をかけることになりますので 自粛し自重しましょう

では

  

Posted by hamabeat at 11:27Comments(0)ボクメンタリー

2020年04月07日

200407 Unseen Enemy/見えない敵ー3

みなさん お元気ですか?

今日 ようやく 緊急事態宣言 が発令されました

10日遅い対応と思われます。

10日前に発令していれば現在の感染者の数はもっと抑えられていた筈です


政府関係者かそれに近い方が発言していた内容をおぼえています

緊急事態宣言 は 天下の宝刀 です でもこの宝刀は 竹光(たけみつ) です

それを聞いたとき 成る程と思ったのはこうです

竹光を抜くのは さすがに恥ずかしいので ここまで伸ばしたいのか と

その方は多分 そんなに強制力はない鋭く切れる刀ではないので

と 国民を安心させる意味合いで言ったのかもしれません が

とうとう 抜きましたね 竹光を  

やはり 鈍い(ニブイ)光です


我が家では 佐々が 和紙布のハンカチ で洗えるマスクを作っています。

小学校の孫たちは5月の連休まで休校の為 朝から我が家へ避難しています

といっても 僕にコロナが感染するのを避けるため 手の消毒をしてマスクをして入ってきます

そして 別室で 宿題や YouTube で過ごしています。

今回のことを教訓にして 様々な分野で テレワーク等のIT化 ロボット化 が推進されていくと思います。

学校も パソコン、タブレットでの教育のネットワーク化 の早い実現が望まれます

こういう時期だからこそ 頭を切り代え チェンジしていく発想が必要じゃないかな

でも 孫たちとも気兼ねなく体を接しておしゃべりし笑いながら食事する

そんな日が 早く来ればいいですね。 その為には今はガマンの時ですね

…………………………………………………………………………

Unseen Enemy/見えない敵 というドキュメンタリーを見た。

去年の2月に放送したものの再放送

今回の新型コロナウイルスのパンデミックを

見事に予想するかのようなドキュメンタリーでした

特に21世紀になって 様々な多くのウイルスとの戦い

その原因の一つに 森林伐採による 環境破壊 があるという

原発事故も 昨今の世界的激甚災害も 今回のウイルスも

結局 我々人類が招いた Unseen Enemy/見えない敵 との戦いです

…………………………………………………………………………

エイズウイルス ブタインフルエンザ 鳥インフルエンザ エボラ出血熱 ジカウイルス感染症

2002年から翌年にかけての SARS(重症急性呼吸器症候群。中国が発生源)

2012年、MERS(中東呼吸器症候群)そして今回のコロナウイルスによるパンデミック


第一次世界大戦は スペイン・インフルエンザ(1918-20)によって

終了せざるをえなかったそうだ

第一次世界大戦の戦死者は約一千万人と言われているが

このウイルスによって 実にその四倍(約四千万人)の人命が失われたそうです。

日本ではおよそ なんと 45万人の死者 を出したというが あまり知られてはいない

いまでは 信じられない数の死者なのです

…………………………………………………………………………

福岡伸一ハカセ の最近の新聞のコラムに

<ウイルスはもともと私たちのものだった

それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を

宿主(つまり 我々の細胞)は優しくむかえいれているのだ。>

と書いている。 そして去年の新聞のコラムには

<ウイルスに対して免疫システムは。DNAのランダムな組み替えと

積極的な変化によって、百万通り以上の抗体を準備する。

この中のどれかがいざというとき役立てばいい

大半の抗体は使われないまま終わる。

無作為に大過剰を作り出すことは一見、無駄に思える

コストもかかる。しかし生命はあえてそうしている。

無作為は作為にまさる。過剰さは効率を凌駕する。>


ウイルスは、遺伝子が不安定なRNAなので、変異しやすい

ともかく沢山のコピーを作るが コピーの精度が悪いので

ランダムに無作為に色々な変種ができ

たまたまその中のあるウイルスが環境に適応して生き延びたりする

もともと生命の進化の原理はそういう あいまいな過剰 なのかもしれない。


随分前のブログで 見えない敵 というタイトルで書いた内容は

一人の敵を倒すのに 何発の銃弾が必要だったか?

この 数のデータの資料のことで 数は忘れましたが

多分 ベトナム戦争の頃には大変な数だったと思います

結局 敵が見えなくなればなる程 メクラ撃ちになってきます

数 撃ちゃ 当たる に落ち入ります


また こういう話もあります

太平洋戦争の時の 日本軍と米軍との違いです

日本は 優秀で職人的な軍人を一人育てる のに対して

アメリカは 職人を育てるには時間がかかる ということもあり

普通に銃を扱えて それなりに 銃を撃てる人が10人いればいい

みんなで撃てば一発くらい当たるだろう

それこそ ウイルスや免疫の戦いのやりかた

無作為は作為にまさる。過剰さは効率を凌駕する

そのもの であろうと思います



なんか いろいろ しゃべりました

自己責任で この危機に対処しましょう

では

  

Posted by hamabeat at 20:50Comments(0)ボクメンタリー

2020年04月02日

200402 見えない敵ー2

こちら福井は幸いコロナ感染 後進県でしたが 

3月18日に初めて一人の感染者が発見されました

その後急速に感染拡大し4月2日現在30人までに達しました

今日 4月2日 福井赤十字病院の外来受診をしてきました。

駐車場は絞ってあり 入り口は正面玄関1カ所のみ

検温し、問題なしと認められたもののみが入れる関所になってる

外来患者も通常の30%減くらいの人数だった

ぼくの検査は血液とレントゲンですが 問題なしでした

次の予約日のことで 病院は一番危険な場所なのでできるだけ来たくないから というと

医師は それは非常に適切な判断ですね と答えてくれて

最長 99日分の薬を出してくれました


最初よそ事のように思っていた コロナクライシス ですが

福井は人口が少ない割に感染者が多く 危険を みじかに感じるようになってきました

こういう時に頼りになる情報は 

口コミ、メルコミ(SNS等メールによるもの)などの知人、友人によるものです。

どこの誰がどこへ行って感染し どこで飲んでいて だれに感染しどこの病院に入っている というような

実名での生情報はマスコミでは発信されず でも最も必要な情報ですよね

ただ デマ情報が暴走しなければの話ですが 

…………………………………………………………………………

3月13日にテレビで紹介された和紙フィルターを挟んで 洗えるマスク

佐々がすかさず電話して 4セットを注文しました。

そのマスクが今日4月2日に届きました。

https://nunomask.base.shop/







僕たちはマスクを沢山持っているし、そうそう外へ出ないので

子供たちが3人いる息子夫婦に渡すことになります。

今は予約でパンクしているようで 注文は受け付けてないかもしれない。

…………………………………………………………………………

前回のブログは3月25日 その投稿後 小池都知事の声明がありました

感染爆発の重大局面にあり、週末の不要不急の外出自粛を都民に要請しました

3月30日(月)には更に踏み込んだ要請がありました

昨日 4月1日 日本医師会が 医療危機的緊急宣言 を宣言しました が

方や 能天気に一国の首相がエイプリルフールの日に マスクを全世帯に2枚づつ配る と

小さな白いマスク越しに宣言しました

そして いまだに 緊急事態宣言の状態ではない と言い張ってます

緊急事態の只中に宣言をするつもりでしょうか?

それからでは 取り返しのつかないことになります

そして なにより 保証の方法と金額 を全く示していない

無能 というほかない


ただ 自分が感染されない そして 感染キャリアにならない

そう注意をして生活するより方法がない

ぼくは 感染したら 命が亡くなる ので

死 をみじかに感じる昨今です

癌はまだ 数ヶ月から数年生きれるが

コロナは 1〜2週間でいっちまう

これからだよ これから 正念場は

では
  

Posted by hamabeat at 17:33Comments(0)ボクメンタリー

2020年03月25日

200325 Blog 見えない敵

久しぶりのブログになります。

最初に その後の報告を

1月と2月に 第3回と第4回の抗癌剤治療を終えました

いずれも 福井赤十字病院で 外来診療での治療で 入院はしていません

結果は 順調で レントゲンではほぼ解らないくらい小さくなっていました

でも ゼロではないので これからは経過観察になり月一度くらいの検査になります。

副作用は治療後すぐ 足の異常で 説明が難しいですが

歩行がふらつくことと 両足がズンと重い感じといったところでしょうか

2週間経過するあたりから白血球がダウンしてきます。

第3回目は3日間 白血球の値を上げる注射をしましたが

第4回目は 注射なしでもなんとか終了しました。

順調な経過なので ご安心ください。

……………………………………………………………………

新型コロナウイルス感染症が年明けから毎日報道されています。

この病に対応した有効な薬はまだできていません。

ぼくの場合 感染すれば まず 命が無くなるだろうと思われます。

感染症に対する注意は 2年前の 治療と外科手術を経て 第一の対応事項です。

従って 以前から人よりも十分な注意を払ってきたつもりです。

仕事はずっと切れ目なくしていますが もとより テレワークならぬ メールワークなので

会社に出勤することなく 自宅で仕事している為 身の安全は確保されています。
……………………………………………………………………

新型コロナウイルスは COVID-19 と名付けられています

CoronaVirus Disease, 2019 (2019年にコロナウイルスにより発生した病気)

の略のようです。

ウイルスは生物と無生物の間に位置付けられているようで

どちらでもなく どちらでもあるような フシギ な存在です。

単独では生きていられなく  人や動物の細胞などの宿主に

寄生してしか生きられなくて まこと パラサイトな生き物? のようです。

……………………………………………………………………

新型コロナウイルス は 中国の武漢の市場から発生したようです。

日本では 中国からの旅行者ータクシー運転手ー屋台船 と感染が繋がっていきました

武漢封鎖にともない 武漢からのチャーター機 その後 クルーズ船に対する対応に追われました。

それからの北海道の感染拡大 と 中国からの観光が主な感染経路でした

しかし その後 イタリアの医療崩壊に始まる欧州のパンデミック

そしてアメリカにまで及ぶ都市封鎖にまで発展しました。

こちら 福井 はずっと感染者ゼロでしたが最近一人の感染者が発見されました。

東京出張の会社社長だそうです。

東京 そして 大阪、神戸、名古屋 等 都市が今一番の感染源になっています。

そして 感染経路のわからない感染 が増え始めています。

ヨーロッパの国々の都市封鎖のため 日本への駆け込み帰国者が 日本の都市に集中しています。

次にアメリカからの駆け込み帰国者が帰国してきます。

昨日 小池知事が 都市封鎖(ロックダウン) の可能性もありうる と発表しました

厚生労働省の感染症対策の責任者が いつ何が起きてもおかしくない状態 と言っていました

手のつけられない状態にまで陥るか否かはこれからの対策にかかっています

でも相変わらず 一部ではコンサートや競技が行われ 花見や宴会が行われています。

能天気 としか言いようがないです。

個人的には 都市部のロックダウン か それに準じた対策を今すぐ発令すべきだと思います

すでに国境のない世界規模の戦争が起こっている時に躊躇している暇はありません


いま 子供達の間で 鬼滅の刃 が流行っていて

鱗滝左近次(うろこだきさこんじ)名言  判断が遅い 

を子供達が言い合っているにを耳にします。

今の政府やトップの決断は そのまさに  判断が遅い  です

オリンピックは ようやく延期が決定されましたが

随分前から皆が思っていたことですよ


十分な実証や数字がない限り 発令することができないというかもしれません

その実証や数字が明確に出た時にはもう手遅れです

躊躇してる間にも 見えない敵 ウイルスは 休むことなく増殖しているのですから

以前 見えない敵 というタイトルでブログを書いています。

それは 実際の戦争での 見えない敵 という内容でした。


福島第一原発からの 放射能、地球温暖化による世界規模の災害

そして今回の 新型コロナウイルス 

(ウイルスの発生は地球温暖化と無関係ではなさそうです) 

いずれも 見えない敵 に対する戦いには 勝てていません

コロナウイルス  は 現代の世界の在り方  広域に 高速に  瞬時にどこまでも移動する

その ネットワークを見事に利用しています。

いつ 終熄 するか 心配です。

では
  

Posted by hamabeat at 17:34Comments(0)ボクメンタリー

2020年02月15日

1965-1975年:My Back Pages エピソードー4 /1970大阪

1969年 僕は21歳、 佐々は20歳 だった。

僕は大学4年生、佐々は 短大2年生 

次の年は同時に卒業だった

佐々は京都の会社に就職が決まっていたが  僕に当てなぞ無かった

そんなある日 僕の下宿で佐々と二人 

遅い朝飯を食べようとご飯をよそっている時だった

”ごめんください”  と玄関のガラス戸を叩く人がいた

戸を開けると 佐々のご両親だった

ここにいる筈の無い娘の佐々を見つけると

”おまえは !!”と言い手を上げた

佐々は裸足で外へ逃げていった

娘がいなくなると やおら改まって切り出した。

”あなたのことは全て調べてあります。娘から手を引いてください。

娘は 京都で就職はさせず 卒業後福井へつれて帰ります”

そう 静かに 丁寧に話されました

ぼくは”僕とのことも、就職のことも 彼女自身が決めることではないでしょうか”

と言いましたが はっきりした返事はなく すぐ帰られました。

1979年だったと思う 卒業の前は彼女と一緒に生活をしてました

そんなおり 剣道部の1年後輩のT君が引っ越しとかで

かれの会社の人がトラックでやってきたのを これ幸いと

佐々の女子寮に残してある荷物を取りにいくことをお願いしました

電話で女子寮にいる佐々の友達に荷物を寮の外に出しておいてもらうのをお願いし

会社の人と一緒にトラックを女子寮に乗り着けました

小さな荷物がからげて塀の外に置いてありました

噂に聞いていた きつい顔をした女寮長が出てきましたが

押しのけて荷物を積んで ハイ サヨナラ  と下宿に戻った

さて 僕も下宿を出なくてはならず ハテ コマッタ が 行く当て 無し

折も折 いっしょに学生運動をやっていた大阪でバイトしているSSから

いっしょにバイトしないかとお誘いがかかり 急遽 大阪へ引っ越し

会社が用意してくれた下宿に二人で転がり込んだ

大家さんは沖縄の人 で一階に家族で住んでいて

僕たちは二階の四畳半、 会社には佐々と自転車の二人乗り

会社といってもぼろい長屋の自宅兼用

夫婦が親身になって面倒見てくれた。

まるで ”三丁目の夕日” の映画のセットみたいな情景といっていいかな

時は 大阪万博 下宿の大家さんとこ 毎日入れ変わりで沖縄から縁者がきて

毎晩 三線に唄、踊りでにぎやかだった

僕たちは 大阪にいながら 一度も万博には行かなかった

成人式も出ず、大学の卒業式にも出ず、就職活動もせず

日の当たらない裏街道を呑気に歩き続けた

随分後で気が付いたことだが この下宿のすぐ裏のところに

以前留置されていた淀川署があり ある日二人の刑事がやってきて

”お前 こんな近くに住んどったんか” 笑っていた

………………………………………………………..

大阪には約一年住んでいた

大阪で体験したことは 天六(天神橋六丁目)のガス爆発事故

死者79名、重軽傷者420名の大惨事。家屋の被害は全半焼が26戸、爆風を受けての損壊336戸

爆風でドアや窓ガラスが壊れた近隣の家屋は1,000戸以上(Wikipedia)

佐々と二人、すぐそばの商店街にいたが 爆発音は聞こえなかった

救急車と消防車とパトカーのサイレンで気が付き、その道路に出て驚いた。

約1,000枚が敷設されていた覆工板(コンクリート製)のほとんどが

上に乗っていた人間もろとも吹き飛ばされ、多くの犠牲者を出した。(Wikipedia)

その覆工板が爆発で縦に立っていたし、車があちこちで火を噴いていたし

道路の真ん中で 太いバーナーのような火炎が吹き出していた

血まみれの人が運び出されていて 戦場の修羅場のようだった

二次爆発の可能性もあったので急いでその場を後にした


それから三島由紀夫の切腹の話を古本屋さんのラジオで聞いた

どんより曇った日だったと思うが なんだか暗い気持ちになった


よど号ハイジャック事件は 天六の焼肉やさんのテレビ実況でみた

オーナーのおばさんは 朝鮮の方で いつも鍋でコチジャンを作っていた。

この時店の奥のカウンターに座っていた着流しの組長風の上品なおじさんと

この事件のことに付いて話した。はじめは否定的だったが話をしているうちに打ち解けてきて

おじさん 帰りに 僕たちの肩を叩いて ガンバレヨナ といって出て行った。



この年の大阪は万博で沸き返っていた。

僕たちはその年、大阪で生活していたが

一度も万博には行かなかった。

人が多いところには行きたくないし、明るい未来に興味は無かった。

成人式にも大学の卒業式にも行かなかったし、就職試験を受けた事も無い。

何故か 将来のことを 考えた事もなかった。


前のエピソードに書いた  ウッドストック、イージーライダー、真夜中のカーボーイ は

この大阪の映画館で見た。勿論 二人で

佐々の家に住所等いっさい知らせて無く、連絡もしなかった

この大阪の一年間は 僕たち二人の 逃避行でした。

この後 京都にカムバック  岡崎のアパートに移ります。

東京タワー、新幹線、東京オリンピック、大阪万博 と

この後 日本はフルスロットルで疾走することになります。


大阪での一年間 色々ありました。

僕たちの初めての生活は 貧乏ながら それなりに新鮮でした

近くに新しくできた 今風の トングとトレーでカウンターにもっていくスタイルのパン屋さんで

クロワッサンを買い サイフォンコーヒーで淹れたてのコーヒーを飲みながら食べた

大阪にも 大阪にしかない 思い出があります。

この年だったか 京都に行ってからだったか忘れたが

梅田に 紀伊国屋書店ができて よく入り浸ったが

ぼくはもっぱら 古本屋さん巡り  古い本が好きだったし いまでもそれは変わらない

紙の黄ばみや衣魚、古本のあの 匂い が好きだし 古い活版の活字も好き

長い時間が変化させてきたあの古感がいいのです。

新本のあの印刷のインクの匂いもすきではありますが


さて おおさか フェアウエル ということで お別れになります。

次回 エピソードー5 は 予定は未定

気が向いたら そのうち書きます 期待はしないでください

では
  

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2020年02月01日

1965-1975年:My Back Pages エピソードー3 /学園闘争

1967年の三里塚の体験で 三里塚ショックが僕の中で起きます

それは 彼らの地についた戦い、農家として 土地、生活を守る戦い

そういう具体的な戦いを見て、自分達の戦いとは何なんだろう

という疑問が湧いてきたことです。

そんな時、1968年の日大闘争を皮切りに

急速に全国に学園闘争が広がりました。

自分達の戦いが始まった訳です

連日、校内集会が開かれ、大学側との話し合いがもたれ

校内デモが起き その後建物の占拠、封鎖にまで発展しました。

全ての教職員、学生が無視するか大学側につくか、抗議側につくかを迫られました。

学生は多くが抗議する側につきデモ隊に参加するようになりました。

自然発生的に仲間は増えていきました

しかし 学内での各セクト間での対立も激しくなり始め

集会が終わると 角材による内ゲバが始まるようになりました。

しかも逃げ遅れた学生を数人で囲み角材を振り下ろしているのを

僕は何回か止めたことがあります。

同じ目的を持っていながら、主義主張が違うからといって

お互いが暴力で解決しようとするやり方に疑問を感じ始めました。

僕の北賀茂の下宿は離れになっていて広い部屋だったので

いつも仲間たちが集まっていましたが

激しく対抗しているセクトの人達とも一緒に話をしていました。

内ゲバが激しくなるにつれ参加して来た多くの学生は少しずつ去っていきました

もし仮にでも革命が成就し (ありえないことですが)指導部が政権を取ったとしたら

そこから権力闘争が始まり 自分達が反対してきた筈の

スターリニズムに落ち入るのは目に見えている

僕は 運動から身を引いた

……………………………………………………………………….
学園闘争の初期 毎日集会が続く中 期末試験が始まる時期になりました。

3回生の試験です。 僕たちは 毎日 朝、事務所に押し入り

”こんな状態の時、 試験なんかやってる場合か!”と書類を蹴散らかしました

おかげで この時の試験は中止、 全てレポート提出となりました。

前回のエピソードで紹介した滋賀のアキラさん  

僕が運動を始めた頃に出逢いました

何故か僕のことを気に入ってくれて その後もずっと付き合いましたが現在消息不明

彼は中高生の頃から 文学書を読みあさり 映画はビスコンティや希有な名画を見まくり

そうとう弁のたつ 論客でしたが 反面、冬山単独登頂というような強者でした。

北賀茂の下宿にはよく突然現れて 朝方 オールナイト営業の中華飯店でガッツリ食べ

さて 一番電車で帰ると言い 重いカバンを手に提げ 京都駅まで歩いていきました

市電でも30分近くかかるような距離です

そんな 我々とはレベルの違うタイプなので 

学生運動なぞに参加するはずはありませんが

共感はしてくれて いろいろ論理面で教えてくれました

話を戻します。その レポート提出は彼に助けられました

”おい! これ うつせ”と持って来たレポートをそのまま書き移しました。

3回生の単位は全て取得、これがなかったら

僕は卒業は出来なかった筈です。

4回生の卒業試験は リンチを避けるため命がけで受け

体育の単位は野球の応援で取り、ぎりぎり卒業しました。

一緒に運動していた仲間はほとんど卒業できず中退で終わっています。

僕にとっては余裕のない親が大学にやってくれたことへの義理を果たすため

どんなことがあっても卒業する必要がありました。

大学の卒業式に出席することもなく 就職活動をしたこともありません。

筒に入った卒業証書が家に郵送されていたようです。

……………………………………………………………………..

1968年末には東大闘争の誘いが毎日かかった

僕は かたくなに断ったが 僕のシンパだった工学部のAが

女性関係のもつれからか 東大に行くと言い始めた

僕は ”絶対に行くな! 必ず逮捕されるし、人生終わるぞ!”

そう何度も説得したが 聞かなかった。それが彼に会った最後だった。

1969年1月 激しい攻防戦の結果 東大は陥落した。

彼は 逮捕され 実家に連れ戻され分離裁判にかけられたと後に聞いた。

その時の経験で彼にしか解らない確かなものを掴み取ったとは思うが

今でも僕は彼のことを時々思う時がある

僕の先輩は東大の屋上で最後の最後まで

身をなげうって戦ったと聞いた。

東大闘争の終焉を契機に 学生運動はより過激に 

そして本来の目的とは別な方向に進むことになり

連合赤軍の仲間のリンチによる凄惨な虐殺によって

大衆からの支持を完全に失っていくことになる。

革命は 多くの大衆の怒りによって起こされるものである 

ということを彼らは忘れている。

……………………………………………………………………

香港の反中国デモは学生たちによってより過激なものになってきたが

11月24日 香港区議会選挙の結果は 民主党の圧勝で終わった

一連の抗議デモは多くの香港市民によって支持されたことになる

でもこれからの中国政府の出方が心配になってくる


エピソードー3 はこれで終わります。

次回 エピソードー4 に続きます。


では

  

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2020年01月05日

1965-1975年:My Back Pages エピソードー2 /三里塚、10.21新宿

大学時代は東京によく行きました。

1967年だったかと思います。夜行列車で東京・法政大学へ

法政大学校内の たしか民青との戦いの助っ人で行ったと思います。

僕の大学もそうでしたが 日本共産党(日共)の青年組織である民青(民主青年同盟)

とは衝突が絶えませんでした。特に僕の大学では暁行動隊なる強力な組織があり

特に夜間は校内にいるのが危険な状態でした。

僕たちは反日共系 新左翼と呼ばれていて

アメリカにもソヴィエト・日本共産党にも反旗を翻していた。

法政大学にも民青が多くいたようです。

夜は大学の自治会ボックスで寝泊まりしましたが

結局 何事も無く、2~3日後に三里塚に向かいました。

成田空港建設阻止を強固に戦っていた反対同盟の農家へ行きました。

最初は社会党や共産党と共闘していたようですが彼らの裏切りに怒り

新左翼との共闘を決定した頃だと思います。

夕方到着し、それぞれ分かれて 各農家へ分宿となりました

一軒の農家に着くと笑顔で歓迎され 夕食をごちそうになり、お酒も頂きました。

その後お話をしましたが 農家のおじさん、おばさん、青年たちですが

政治的で過激な発言に驚かされました。自分達がひ弱に思えた程です。

夜はふかふかの布団で寝て 明くる朝は朝食後 

大きなおにぎりを持たせてくれました。

しっかり頑張って来てね  と激励され 集会広場へ向かいました。

青年行動隊のグループがヘルメットを被り、農具で武装し

激しくアジテーションをしてました。

それから僕たちのグループと一緒に広い畑を眺めながらデモを行いましたが

機動隊は結局現れず 平和的で牧歌的なデモで終わりました。

この年はまだしもでしたが 三里塚闘争は 

この後 激しく危険な戦いになっていったようです。


個人的にもよく東京には行きました

夜行バスで横浜へ。 友達の下宿へ転がり込み数日寝泊まりした

翌日から早朝最寄りの駅に行き、アルバイトの仕事をもらった

駅には手配師がいて 集まってくる日雇い労働者に仕事を割り当てていた

割り当てられた会社に行き、昼飯の弁当と日当をもらい 大型トラックに乗り込む

荷物の積み降ろしが仕事の内容だ

そんなある日 東京に行き仕事を済ませの帰り 

銀座だったと記憶してるがそこで降ろしてもらった

東京の 高校時代の剣道部の友人トオルの下宿に世話になる。

彼の部屋は2つの部屋に挟まれた真ん中の窓が一つもない部屋で

主に寝泊まり専用で使っていたみたいだった。

彼がアルバイトをしていた会社で僕も一緒に働いた。

会社は夜間はアルバイト学生に解放しているようで そこを寝泊まりの場所とした

昼は肉体労働のハードなバイトなので 夜は皆で飲み会が始まる

時には 近くの屋台でおいしいオデンをつまみに酒を飲んだ

その仲間のユウジと親しくなり 以後 京都と東京を結んで交流が始まる。

彼は現在 鳥取で写真館を経営していて 今は息子の代になってるようだ

その年は1967年だったと思う。10.21国際反戦デーが各地で毎年行われていたが

新宿がその中で最も大規模なデモが行われていた

ぼくは その日新宿へ向かった。電車の車内放送では盛んに

”新宿には向かわないで下さい”と繰り返されていた。

新宿に降りると 沢山の群衆が集まっていた。警官も沢山いて手荷物検査を行っていた。

そして  ”停まらないで下さい、移動して下さい”と叫んでいた

機動隊も出て来て そのうち群衆と小競り合いが始まった

暗くなってから高田馬場方面からヘルメットを被った学生のデモ隊が到着すると

待ってましたとばかり 群衆の拍手と叫び声が沸き起こった

それからは想像がつくでしょうが 勢いを得た群衆は機動隊と衝突しはじめた

放水車は孤立し 火を吹いていた なにしろ多勢に無勢で 機動隊が逃げ惑っていた

ぼくが 機動隊を追いかけたのは その時が初めてで最後でした

機動隊は逃げる時に催涙弾の水平撃ちをやります。ぼくは 腰に玉が当たりました

この弾は 20メートルの距離からまともに当たるとベニヤ板を打ち抜くといいます。

廻りの皆が駆け寄ってきましたが けがは無く済みました。

1968年の10.21新宿はさらに激しく騒乱罪が適用されました。


そのうち京都から佐々がやってきた。しかも 新幹線に乗ってだ

一緒に会社に寝泊まりし一緒に宴会を楽しんでいたが

さて 京都に帰る時になって ”帰りの汽車賃持ってるか?” と聞くと

”何言ってるの あなたアルバイトしてたんだから当てにして片道切符できたのに”ときた

ここでは 江戸っ子だい 宵越しの金は持たない  僕のバイト代は酒で消えていた。

結局 佐々の親戚の人にお金を借りにいって 二人で新幹線で帰った始末


京都岡崎に下宿している頃ロック喫茶で東京から来た若者に逢った

東京でロック喫茶を始めたいのでこちらのお店を視察に来たという

僕たちの下宿で数日寝泊まりをしあちこち廻って東京に帰っていった

それから何ヶ月か後に高円寺で  という名前のお店を出した

Rock Band Jefferson Airplane  が好きだから付けた名前だった

東京にいくとその店 をねぐらにしてあちこち廻った

それと 前のアルバイトで知り合った ユウジ のところにもよく泊まり 

彼とハルミさんにはずいぶん世話になった。

そのころ ユウジは 僕たちの岡崎のアパートに 東京から車でやってきた

4人くらいで来たと思う。やはり酒盛りをしながらしばらくは雑魚寝の日々だった


佐々は独りで あちこち行くのが好きで 熊本のコミューンにいったり

中津川のフォークジャンボリーに行ったり 

ジャック・エリオットのコンサートに行ったりしていた。

中津川には数日いて 帰って来てからしばらくすると 

そこで知り合った男たちが次々とあらわれた

僕の部屋でギターを弾いて 自作の唄を聞かせてくれたりしたが…….

河原町のロック喫茶のマスターもよく車できて おもいきりギターをかきならしだ

高校の同級生だったxxxxが最近 急に有名になりやがって 

俺をちっとも相手にしてくれん とか

ブツブツ文句をいいながらそそくさと帰っていった

その女性は 有名なシンガーソングライターだった

一緒にアルバイトをしていた秋田出身のビンさんもよく遊びにきたし

ぼくもよく彼の下宿へ遊びにいったり、泊まって帰ることも多かった

あまり頻繁にいくので 佐々が嫉妬したくらいだった

それから 次のエピソードで登場する予定だが 滋賀のテツさん

大阪の商社勤務で 時々遊びに来てあちこち飲みに連れて行ってくれた

この岡崎のアパートはいつも誰かが遊びに来ていた。


この岡崎時代 佐々は近くのジャスコの肉やさんでアルバイトをしていた

そのせいでおいしい肉にありつけた その後 あの有名な 一澤帆布 で仕事をしていた

大学時代に一緒に運動していた FK は京都中央市場で仕事をしていたので

よく生きのいい魚を持って来てくれたりしたので 食べるものは贅沢していたと思う

FKは姉のことで堺では世話になった、現在肺癌の治療中

今年の年賀状に ”余命宣告期間は過ぎたので只今おつり生存中” と書かれていた。

別れの準備 のブログで書いた 若くして亡くなった青森のREMともこのアパートで知り合いました。

この岡崎時代が最も多くの友達と交流した時代でした

一人一人を紹介しているページはありません


このあと 銀月アパート に移ります

僕のブログで最もアクセス数が多いのは 銀月アパート のブログです。

このアパートでは ここの幾人かの住人と友達になりました。

大阪にいるころ知り合った ボロ という若者が時々東京からやってきて寝泊まりしました

四条にあった  磔磔  というライブハウスでステージにあがり演奏しました

そのころ 延岡からギターひとつでやってきたマサヒロは数ヶ月一緒にくらし

僕と共に アルバイトをし、仲間たちと 同人誌を 手作りしました

26歳の頃 長く続いた裁判がようやく終わりました。

結果は 当然 有罪で執行猶予3年でした。

裁判が終わるまでは 関西圏にいなければならなかったのですが

ようやく縛りが解けて 単身 北海道へ約四ヶ月の旅に出ることになります。

その後 福井の友人 トオル に誘われて 

福井に帰り 初めて会社に入ることになります。

長くなるので エピソード2 はここまでとします。

では 皆さん 次回に続きます




  

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2020年01月01日

2020 お年賀

皆さん あけましておめでとうございます。




………………………………………………………………

去年は癌の転移が見つかり、2度抗癌剤治療のため入院しました。

治療の効果はあり、その結果 癌細胞はかなり小さくなっていました。

12月26日 金沢の病院にて外来健診をしました。

6月と12月の末は定期検診を行っています。

検査の結果では退院時と変わりなく特に異常はないとのことでした。


今年1月7日に福井日赤にて3回目の抗癌剤治療を行います。1日かかります。

入院はせず、その後 火曜日、木曜日の検査で副作用の具合を確認します。

一週間~10日経過あたりから白血球が落ち始めます。

程度によっては数日入院して白血球を上げる注射をうつかもしれませんが

入院する必要がないかもしれません。

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今年の年賀状の元画像はこれです。

以前の年賀状にも使用しました。

随分前の ヘッドフォンの雑誌広告だと思います。


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今年はまだ雪が積もっていません。

昔の写真の整理をしていたら 福井豪雪の写真が出てきました。

こちらでは サンパチ豪雪、ゴーロク豪雪 と呼ばれています。

昭和38年、昭和56年の豪雪から付けられた名前です。

昭和38年/1963年 積雪213センチ 僕は中学3年、高校受験の年でした



昭和56年/1981年 積雪196センチ 子供が生まれた年です





平成30年/2018年 積雪140センチ 僕は金沢の病院に入院してました。


昭和38年の写真はネットから拾ってきました。

家は雪にすっぽり埋まっていて、家の前の道路は屋根の高さでした。

昭和56年の写真は 駅前のお堀を埋め尽くし山高く積まれた雪も風景です。

後ろにみえる建設中の建物は福井城跡に建てられている福井県庁です。

この年に建てられたものですが ここは福井城趾として復旧保存されるべき土地でした。

平成30年は記憶に新しい豪雪災害でした。僕は入院中で

6階の窓から毎晩除雪中のダンプを眺めていました。

金沢では福井の半分くらいの積雪でしたが 旧市街は道が細く大変だったようで

医師、看護師の皆さん 歩いて病院にたどりついていたようです。

昭和38年はまだ自家用車の時代じゃなく渋滞による混乱はなかったように思う

しかも食料は基本、地産地消だったので物流による混乱もなかったと思う。

昭和56年は自家用車も増え道路の渋滞は大変だった

平成30年はさらに道路の渋滞が最もひどく物流が寸断され

会社はマヒ状態でスーパー、コンビニから食料が消えたようです。

最近の災害でもそうですが 何かの時に物流や電気、水等の

ライフラインが寸断されたときの被害が深刻で広範囲になってきています。

中央集権的 一極集中がもたらす二次災害といえます。

これからの大災害の時代 分散化による危機管理が必要かと思われます

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大晦日 12月31日

そば処 おおくぼ に佐々と二人で行ってきました



去年は 雪が降っていて おおくぼさんが雪道を滑りながら歩いているところ

車で拾ってお店に帰り 蕎麦 を食べさせてもらいました。

おおくぼさん いつまで蕎麦をうてるかどうかわからないし

ぼくだって いつまで生きているかはわからない ので

一期一会 巡り会ったときに頂くしかない。

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ちょっと見たい映画は

カーマイン・ストリート・ギター



新年にあたって送りたい動画はこれ Everyday People



Song Around The Worldシリーズ はなかなか面白い

世界中の人々、男も女も、年寄りも子供も、それぞれの国の楽器を使って

人種を越えて、 音楽に国境は無い

人生はお祭りだ Life is a Carnival

そして 日本版のこれ ONE LOVE/上を向いて歩こう

去年 One Team という言葉が話題に上ったが

この ボブ・マーリーのOne Loveで始まる動画


東日本大震災をわすれてはいけない

おまけ で Blues を



では また


  

Posted by hamabeat at 09:51Comments(0)お年賀

2019年12月04日

1965-1975年-My Back Pages エピソードー1/1968年 僕は二十歳だった。

僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。
J'avais vingt ans. Je ne laisserai personne dire que c'est le plus belle âge de la vie.

何もかもが若者を破滅させようとしている。

恋、思想、家族を失うこと、大人たちのなかに入ること。

この世界のなかで自分の場所を知るのはキツいものだ。

ポールニザン: アデンアラビア




病院でゆっくりベットでくつろいでいると 色々過去の思い出 が蘇る。


僕は福井の高校を卒業して京都の私立大学に入学した。学部は経済学部。

高校一年の時、剣道部に入部  次の年から女子が入部してきはじめた。

さらに次の年の 2年下の入部生の一人が佐々だった。

佐々が高校2年 僕が大学1年の時 

夏のキャンプの肝試しがきっかけで彼女と付き合い始めた。

よくある話である。

大学2年の時 僕は学生運動を始めた。

その頃 佐々に振られて 京都の年上の女の人と付き合っていた。

京都弁がすごく魅力的なその人 よく喫茶店で長々と

おしゃべりをしたり、時にはお酒を飲んだりした。

雨の日に河原町でデモをしているところを彼女に発見され

 ”あなた、裸足でデモしてたわよ”と言われたことがある。

ぼくのそういったろころと 思想の話とかが刺激になったのかもしれない

その後 少し疎遠になったが、ばったり出町柳であって

近くのクラッシク喫茶で話をした

彼女は カメラの専門学校にいっていて 

静かでシャイな年下の男の子に恋してる といっていた。

僕は学生運動が激しくなって来て それっきりになってしまった。


その大学2年の終わり 福井の喫茶店でバッタリと佐々に出逢った。

僕も彼女も連れがいたが 気を利かせて姿を消した

佐々は 京都の女子短大にうかって 春から京都に来るという

いろいろ話しているうちに 再燃 となりました

京都では佐々は女子寮に入っていました。

そのうち 彼女も学生運動に参加することになります。


僕の下宿は北賀茂にあり はなれの広い部屋でした。

下宿の大家さんは小柄で白髪の芯の強そうな人でした。

以前は看護師長をしていたそうで 何故か僕とは気が合ったようです。

ぼくは2度逮捕されています。 

ある日、夕方下宿に戻る時 少し離れたところにパトカーが停まっていた。

部屋に戻ると、おばさんが僕を呼びに来ました。

座敷に案内されると テーブルの上に菓子箱をおいて若い男が座っていました

”君と同じ大学の卒業生で今は警察だがまだ慣れていないので色々教えて欲しい”

と切り出しました。勿論 きっぱりと断りましたがしつこく食い下がってきます。

おばさんは中立的なもの言いでしたが 

本人がそういってるのだから と釘をさしてくれました。

その男 捨て台詞を吐いてあわてて逃げるように帰っていきました。

僕が卒業し下宿を引き払ってから 年下の仲良くしていた同じ下宿生に

おばさんは 懐かしがるように 僕のことをよく話していたと聞きました。


最初に逮捕されたのは 京大から祇園までのデモの時です。

デモ指揮をまかされ 集会のあと京大を出 百万遍交差点でジグザク行進

出町の交差点でもしっかりジグザク行進をし 河原町を南下する所から御池あたりまで

フランスデモに切り換えました。道路一杯に広がってゆっくりシュプレヒコールを叫びながら

開放的で楽しいデモでした。その時 暑くて 着ていた

真っ赤なシャツを脱ぎジーンズのポケットに押し込みました。

御池のあたりから機動隊の隊列が出て来たため4列縦隊に戻し指揮を交代しました。

四条河原町にさしかかる少し手前で赤いシャツを着ました。

そのとたん 機動隊が動き始め僕は歩道側に逃げ

柵にしがみつきましたが取り押さえられました。

当然ながら 誰も助けてはくれませんでした。 手錠をかけられパトカーで鴨川署へ

私服警官が京大からずっと平行してつけていて シャツを脱いでから見失ったようで

シャツを着たのが甘っかったと 今でも反省しています。


2度目に逮捕されたのは 大阪・伊丹

ベトナム戦争が激化し始めた1968年、反戦運動も世界的に激しくなってきました。

日本には多くの米軍基地があり北爆の飛行機は沖縄から飛び立っていました。

米軍の空母や艦船は佐世保等 日本の港に帰港し

燃料や食品、その他の物資を補給していました。

弾丸や物資の移動には夜間に在来線の鉄道が使われていました。

僕たちはベトナム戦争の前線基地として機能しているこれらを

阻止することで戦争にブレーキをかけようと活動していた

大阪伊丹空港の横に米軍のヘリコプター等の修理や

メンテナンスをしている民間の会社がありました。

再三、抗議デモや通告を繰り返しましたが無視されたため

会社へ突入することになりました。

夏、近くの大学構内からヘルメットに角材を持ち

最寄りの阪急電車の駅に向かいました

駅前商店街を抜ける時、店の人や、おばさんたちは逃げまどいました

駅に着き、切符を買って電車に乗り込みました

2~3両占拠したと思います。

すでに各駅に停車する度に駅前にはパトカーが停まっていました。

目的の駅に到着すると線路に降り

石を拾いボケットにねじ込みその会社を目指しました。

ゲートに着く頃には機動隊が出て来て囲い始めました

ゲートを乗り越え、中に待機していた機動隊としばらく小競り合いが続きました

指揮官の合図とともに機動隊がなだれ込んできました。

そこからは 訳解らず必死で身を守るしかありません。

ヘルメットは割られ、背中はぼこぼこに叩かれ、警棒でめった打ちにされた

目の前を血が飛び交っていたが

余程 はりつめていたのかまるでスローモーションのように

はっきりと 流れる血の筋が見えたのを憶えている。

その後、ひとりひとり ごぼう抜きにされ、アスファルトに叩き付けられた

手錠をはめられ、手錠ごと両手を上げられ、空いた腹をブーツで蹴られた。

結局。淀川署に入れられましたが夜は背中が痛くて

仰向けでは寝られずうつぶせでしばらく寝ていました。

毎日尋問のたびに完全黙秘してきましたが3日目くらいに入ってくるなり

XXXXーと僕の名前を得意げに呼びました

何日かして 朝一番呼び出されて部屋に入ると

検事が座っていて、その前におやじが座っていた。

僕の顔を見るなり 情けないと思ったのか涙を流し

”せめて自分の名前くらいは名乗ってくれ”と言われ

その後は名前以外を黙秘することになります。

留置場には色々な人がいました。夜中には売春婦も入ってきました。

その中に その筋では有名らしい 詐欺師 がいて 全体を仕切っていました。

彼は 僕に ”おまえ 名前なんちゅうんや?” と聞いて来たので”黙秘します”と答えると

”そうか モクヒ か じゃあこれから モクヒ君と呼ぶからな ” と笑いながら言いました

彼は尋問から帰ってくると必ずタバコ1本とマッチを持ち込んで

夜、看守がいない時にタバコを吸っていました

そのタバコを紐で結んで 下の房に降ろして 廻しのみをしていました。

見通しがいいように 2階の廊下も鉄柵になっていたためそれが可能でした


京都の留置場でもそうでしたが 一緒に入っている人達は皆 仲間意識が強く

いろいろ助けてもらいましたし、僕が出所するときは大きな声で”頑張れー”とか

”頑張るなー デモは後ろの方でやるんやぞ” とか応援されました。

それにしても京都の留置場の米は白米でおいしかったし 

今じゃ考えられんが タバコを午前、午後 一本ずつ吸わせてくれたものです。

起訴が確定し大阪の留置場を後にして 大阪拘置所に移されました。


拘置所では小さな独房で 自殺防止のためか 金(きん)隠しのない便器

顔を洗う水道と うすい布団セットが置いてあり 

壁には検閲済みのニュースを流すスピーカーがついていました。

朝早くに点呼。長い廊下をコツコツと歩き近づいてくる足音が聞こえてきます

皆 正座して 入り口の方を向き 大きな声で番号で答えます

昼間は寝ることが許されず 座っているしかありません

読む本もなく、ノートとペンもなく そんな時は夢想するしかありません

壁や床には 名前や落書きが細かく刻まれていて それを読んでいたりもします

運動を希望すると中庭のフェンスで囲まれた小さな運動場に案内されます

各フェンス内では数人がボール遊びをしていましたが

僕は政治犯なので一人 軽く体操をし 青空を仰ぎ見るしかありませんでした。

夜は食事が終わると 主だったニュースが流れ 後は寝るだけになります

となりの棟の屋上では 監視員が見回りをしています

小さな鉄格子の窓からは 遠くに梅田の鉄橋を渡る

阪急電車の明かりが霞んで見えます

日常のささやかな幸せのようなものが浮かんできます

ここを出たら 行き先は何処でもいいから旅に出よう  できるだけ遠くに

そんな想いがふとよぎります。


ここの食事は最低でした。

アルマイトのぼこぼこの蓋付き容器にご飯が入っていましたが

炊いたごはんを詰めたものではなく

容器を並べて蒸し上げたようなベタッとしたかんじのごはんでした

上の方に平たい大きい麦がべったりと覆っていましたから

蓋をしたままひっくり返しトントンと叩き、底をゆっくりと引き抜き

上になった白ご飯から食べました

朝はこれにみそ汁だけ付いていますが 味噌なぞ殆ど入っておらず

キャベツの葉が1~2枚はいっているだけでした。


何日かして 保釈金が用意され ようやく出所することができました


ここまで一気に書いてきましたが長くなりますので

このエピソードー1 はここまでとし 次につづきます。

ここまで読んで下さってありがとう 感謝します。

それでは また お会いしましょう
  

Posted by hamabeat at 20:43Comments(0)僕の裏ページ

2019年12月03日

KNZW W670 退院レポート

報告が遅くなりました。ごめんなさい。

11月28日に退院しました。

体調は良好ですのでご安心ください。

12月5日に福井赤十字病院に行き、3回目の抗癌剤治療のスケジュールを決めます。

今度は福井赤十字病院にて 通院で治療を受けます。

白血球の下がり具合に注意が必要になります。

現在 インフルエンザや風邪がはやっていますので注意しています。

それにしても 娑婆の寒さは半端ない。それに一番寒い日に帰ってきたもんだ。

この寒さのなかで よく皆さん生活しているなと感心します。

僕の20歳代の生活や出来事のブログを書いています。

随分長くなりますが 6回くらいに分けて連載する予定です。

ある意味 激動の1960〜70年代のお話になります。

病院のベットに横になっている時に蘇ったドキュメンタリーです。

それでは 今回も 報告のみになります

では
  

Posted by hamabeat at 12:02Comments(0)ボクメンタリー

2019年11月28日

エネルギー革命/ロハスの思考


このブログは以前書いたものの病院でのレポートをはぶいたものです。

これからは 2種類の記事を分けて発表したいと思います。


今年は関東から東北太平洋側の大きな台風による災害がありました。

年を追うごとに自然災害による被害は大きくなっています

去年の台風21号 そして今年の 台風15号から 19号 その規模の大きさと範囲の広さはいままでにない規模です

地球温暖化がその原因であることは間違いないし これは日本に限らず世界中で起きている異常気象が示している現象です


最近 2冊の本を何回も読み返しました

福岡伸一氏の <ロハスの思考> と 中沢新一氏の <日本の大転換> の2冊です





<ロハスの思考>
の内容は以前のブログに書きましたが 解らないと友に言われました

説明不足だったかもしれません ソトコト新書 で発行されていますので是非読んでみてください


<日本の大転換> は 3.11 の東日本大震災のすぐ後に書かれた本です

大地震 と 原発 について書かれた本です

特に 資本主義と原発とエネルギー革命 について詳しく述べられています

中沢新一氏は宗教学者でもありますから 宗教とのからみで書かれたところはちょっと理解しにくいです

第一次から第七次 までの アンドレ・バラニャック氏のエネルギー革命の説明は参考になりました


第一次エネルギー革命 火の獲得と利用 「炉」を中心とする「家」の形成

第二次エネルギー革命 農業と牧畜の発達 余剰生産物/交換経済の発達 初期の[都市]の形成

第三次エネルギー革命 家の「炉」から「冶金の炉」金属の武器による 「国家」の形成

第四次エネルギー革命 火薬の発明 燃える火から爆発する火への移行

第五次エネルギー革命 石炭の利用 蒸気機関 産業革命

第六次エネルギー革命
 石油エネルギーの利用 電気エネルギー 電波通信技術の発達 自動車産業 資本主義生産

第七次エネルギー革命
 原子力とコンピューターの開発


第七次エネルギー革命の最後の時期が現在にあたるが 資本主義と原子力から脱却するかどうか解りませんが

第八次エネルギー革命は何がキーワードになるでしょうかね

電気エネルギーは当面使われていくでしょうが 何から作られるかが問題となりそうです

以下 <日本の大転換> からの抜粋です

「資本主義は成長を続けなければ、衰退ないし停止に向かうシステムである。この点は原子炉ときわめてよく似ている。

成長を持続できるシステムである為に、資本主義は大量生産と大量消費を世界に要求する。

そのために、資本主義は資源と見なされる生態圏の一部を、無際限に開発・消費することによって

生態圏のバランスを破壊する。また大量消費がおこなわれることで、膨大な量の産業廃棄物と並んで

大量の二酸化炭素が排出され、生態圏にとってきわめて重大なリスクを生み出している」


この結果が 現在の世界の状態である といえます。

巨大台風や世界の異常気象を引き起こしている原因がそこにあると思います。

次のエネルギー革命はいつでも何処にでもある自然(太陽光、風、海流、地熱など)

から生み出されるものでなければならないと思います。

  

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2019年11月27日

欲望の資本論


このブログは以前アップしたものから闘病レポートを削除したものです。

冒頭の数行は追加したものです

11月26日 報道のトップで 温室効果ガス 排出量 過去最多 553億トンと報じられた

警戒レベルをはるかに超えていますが まだ間に合う とも言っていました

スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさん(16)が

昨年、学校を休んで国会前でただ一人、座り込みを始めたのがきっかけとなり

若者の地球温暖化反対運動が全世界に拡がっています

彼女は「人々は困窮し、死にひんし、生態系は崩 壊している

(私たちは絶滅の始まりにあるのに)それでもあなたたちは

お金と、永続的な経済成長という『おとぎ話』を語っている。

よくもそんなこと が・・・」とサミット冒頭のスピーチした。


地球温暖化の原因が少しでも解ってくれればと思い

ごのブログを書きました

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アマゾンで注文した本が病室に届き もうすぐ読み終わりそうです

中沢新一氏の ”緑の資本論” という本です。

この本は 2001年9月11日 あのツインタワーの爆破テロの直後に書かれた本です。

前に紹介した ”日本の大転換” は2011年3月11日の直後に書かれた本です。

21世紀に入って最も大きなこの2つの事件、事故を資本主義の視点から読み解いた内容です

9.11 では2棟のツインタワーがメルトダウンし 3.11 では3基の原子炉がメルトダウンしました。

20世紀に我々人類が犯して来た過ちが この21世紀に跳ね返って来ている感があります

その底流には 欲望の資本主義 があるように思えます。

”緑の資本論”はユダヤ教、キリスト教、イスラム教と資本主義の解釈の違いを論じていて

ちょっと複雑ですが読み応えのある本です。

でも 9.11 の直後 暗にアメリカを非難した内容を発表した勇気に拍手を送ります。

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まずその流れを歴史的にみていきたいと思います。

人類が火を手に入れたのが第一次エネルギー革命です(火の直接利用)


冶金の炉に発達し金属を作り火薬を発明(燃える火から爆発する火に、火の応用)

刀剣、鉄砲などの武器を作り都市が形成され武器による戦(いくさ)がおきます

問題は 第五次エネルギー革命 で起きた 産業革命にあります

産業革命は1760年代から1830年代までにイギリスでおき

石炭を利用して蒸気機関を動かす技術が確立されました(火を動力に変換)

第六次エネルギー革命は石油と電気エネルギーの時代(油田開発、自動車産業、電波通信)

これは19世紀〜20世紀の戦争の世紀といえます。

第七次エネルギー革命は原子力とコンピューター/20世紀〜21世紀 今の時代です

結局 産業革命以後 欲望の資本主義システム を土台にして現在まで進んできました。

大量生産、大量消費、大量殺戮 が加速度的に進められ その結果 

大量の廃棄ゴミ(放射性廃棄物、プラスティック、二酸化炭素を含む) が作られ放置されてきました

資本は利潤を産まないものには投資しません。ですからゴミには投資しません。

………………………………………………………………………………

さて 次に生物学的に見ていきます/還元と酸化

生物が生きていく為に基本的に必要なものは 炭素 です

炭素は空気中に二酸化炭素としてどこにでも沢山ありますが

動物はそれを取り込んで炭素として体に蓄えることができません

それができるのは植物だけです。

下の生態系の図を見て下さい。右半分を A 左半分を B とします



産業革命以前 AB は循環し生態系はバランスが保たれていました。

産業革命以後 欲望の資本主義の暴走によりバランスが破壊され

大量のゴミと大量の二酸化炭素により地球温暖化による気象異状が加速されました。

産業革命以前にはゴミというものは無く全て自然の循環の中を流れていました。

図A では還元状態の食物、石炭、石油(炭素)は酸化、燃焼により二酸化炭素を空気中に放出します。

この時、エネルギーが出され 動物や自動車などのエネルギーになります。

自動車(内燃機関)はガソリンを酸素と混合し燃焼させることでエネルギーを得、二酸化炭素を放出します。

人間など動物は食物から炭素をもらい酸化させることでエネルギーを得、二酸化炭素を放出します。

人間も自動車も同じ内燃機関というシステムで活動しています。

図B では植物は二酸化炭素と水を取り入れ こんどは逆に太陽エネルギーを得、光合成によって酸素を空気中に放出します。

酸素を奪われた炭素は植物のなかに蓄積され還元状態に戻されます。

この循環が欲望の資本主義によってどうして破壊されバランスを失っていったのか

産業革命以後の 人口増加、自動車の普及、大量掘削による石炭石油の発電システム等による

限りない炭素の消費と大量の二酸化炭素排出が大きな原因です。

さらに 図Bの樹木は 建築などの資材として乱伐採、宅地などの不動産として売買することにより

植物の生態系の広範囲の破壊も原因となり いわばダブルパンチとなったわけです。

欲望の資本主義システムがそのように利潤だけを追求してきた結果が現在の地球環境です。 

自然の生態系が本来持っていた循環・再生のシステムを壊してしまった。

今年日本を襲った集中豪雨も巨大台風もこのことが原因であり年々激しくなっていきます。

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第八次エネルギー革命はどういう展開になるのでしょうか?

そして 資本主義はどのように修正されるのか?あるいは別の新しいシステムは?


ちょっと長くなりましたが やっとこれをまとめることが出来ました。

では また

  

Posted by hamabeat at 14:31Comments(0)LOHAS

2019年11月23日

1969年 ウッドストック・フェスティバル


1969年は今からちょうど半世紀前、50年前の激動の時代です

欧米ロックの名盤が沢山リリースした年です。

その頃ぼくは ディラン 一辺倒でしたからロックをあまり聞いてはいませんでした。


1964年 トンキン湾事件以後アメリカ合衆国が北ベトナムに大規模に軍事介入しました

トンキン湾事件はアメリカが作り上げた介入の口実だったことが後に明らかになりました。

1975年 北ベトナム の勝利によって終結しました。アメリカが初めて戦争で負けた戦いです。

10年近くも続いた凄惨で激しい戦争でした。

アメリカは大規模な爆撃により多くの北ベトナムの人達を殺戮しました。

そして自国の10代〜20代の多くの若者たちを犠牲にしました。

しかし 戦争で犠牲になった若者よりもっと多くの若者が帰還してから自殺をしています。

いかに 無意味で虚しい戦争であったかが解ります。


1969年はそのベトナム戦争の丁度真ん中の年になります。

アメリカ国内をはじめ 全世界でベトナム反戦運動が起きていました。

日本でも ベトナム反戦 をスローガンにした運動は活発でした。

1969年 僕は21歳 ベトナム反戦運動に身を投じていました。

この頃、ベトナム戦争に対しては全国民が賛成か反対かを突きつけられていました。

心情的には多くが反対だったと思いますが 行動を起こす人はごく一部でした。

日本は今でもそうだがアメリカの植民地のようなものであり 米軍基地はいたるところにある。

特に 沖縄はベトナム戦争にとって前線基地であり殆どの爆撃機は沖縄から飛んでいた。

日本にとって対岸の火事ではなく ベトナム戦争の加担者であり加害者であったことはたしかである。

<ウッドストック・フェスティバル> を撮影したカメラマンは

<ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実>というドキュメンタリーを撮影しています
第47回(1975)アカデミー賞最優秀長編ドキュメンタリー映画賞を受賞しています



世界的に同じようにこのベトナム反戦運動はその後、大学の学園紛争に進んでいきます。

この時の自分の経験は 自己史の一部として別のブログで公表します。


アメリカ国内の反戦運動も過激さを増していきますが

一方で ヒッピーの 反戦、ラブ&ピースの動きが拡大していきます。

どちらにしてもアメリカの伝統的な中産階級の文化や道徳に反発した

カウンターカルチャーが底流にあると思います。

アメリカに限らず世界中での共通の現象ですが大人たちが作り上げてきた文化に対する

明確な ノー と 今の社会からのドロップアウトとして現れてきました

その 1969年 に起きたのが ウッドストック・フェスティバル  です



多くの ドロップアウトした若者たちやヒッピー達が集まったロックフェスティバルです。

最近 ドキュメンタリー放送でこの時の映像が公開されました。

ミュージシャンによるライブ映像はDVDで見れますが

この映像は主催者や地域住民や土地提供者やこのフェスをサポートした人達を主に扱っています。

今、改めて見てみますと こんなに全てが一体に溶け合ったようなフェスティバルがあったんだと驚かされます。

参加し関わった人達の生き生きとした表情を今の若い人達が見たら 信じられないでしょうね。

このフェスティバルの最後、殆どの人達が去ったあとの ジミ・ヘンドリックスの演奏は

皮肉にもディストーションの効いたThe Star-Spangled Banner アメリカ国歌でした


アメリカの威信が崩れ去っていくような象徴的なライブでした。



この音楽ライブの冒頭はリッチー・ヘブンスの長いパフォーマンスでしたが

アーティストが混乱や渋滞のせいでなかなか集まらなかったため

時間稼ぎをしていたようです。

このライブで衝撃だったグループはまだ無名だったサンタナでした。


この若いドラマーのお姉さんとメールのやり取りをしたことがありました。

たしか 東京に住んでいたと思います。

いずれにしてもこのフェスティバルは この時代にしか起き得なかった象徴的なイベントでした。


この年に公開された映画は

『真夜中のカーボーイ』(Midnight Cowboy)

『イージー・ライダー』(原題:Easy Rider)


ウッドストックと共に 大阪の映画館で 1970年に佐々と見ました。


『真夜中のカーボーイ』は アメリカを象徴するカーボーイの虚しさと失墜とホームレスの夢を描いています

田舎から夢を求めてさっそうと都会に出て来た場違いなカーボーイが過去のアメリカならば

ダスティー・ホフマン演じるホームレスが現在のアメリカです。

彼が夢見たのは 暖かく、明るいフロリダで美女に囲まれているハッピーなアメリカでした。


『イージー・ライダー』は2人のライダーが中産階級の農夫によって殺される場面で終わっています。

いずれも 見終わったあとのあっけらかんとした空虚感はその時代特有のものでした。

『ディア・ハンター』に関する自分のブログは <見えない敵>

http://zenbeat.t-galaxy.com/e2703882.html

『イージー・ライダー』<1970 大阪-1> http://zenbeat.t-galaxy.com/e2703904.html 

を参考にして下さい。

『ディア・ハンター』(The Deer Hunter)は、1978年公開です。

ベトナム戦争終結後すぐに製作された衝撃的な映画です。

屈託のない幸せに包まれていた若者たちがいきなりベトナムに送り込まれ

狂気を体験し変わり果てていく姿と なお仲間たちを信じようとする小さな希望が感じられる映画でした。

最後にピアノの伴奏で静かに皆でうたう 『ゴッド・ブレス・アメリカ』 が残された希望かもしれない。

『ディア・ハンター』のテーマ曲「カヴァティーナ」も物悲しくいいですね。


ちなみに 『2001年宇宙の旅』(2001: A Space Odyssey)1968年に

『ブレードランナー』(Blade Runner)は、1982年に公開されています。

それでは また お会いしましょう
  

Posted by hamabeat at 16:23Comments(0)僕の裏ページ

2019年11月22日

KNZW W670  退院延期レポート 191122

11月21日 血液検査にて白血球と好中球が下がっていると言われた

明くる22日 再度血液検査を行うが まだ下がっているということで

24日の退院は不可能となった。来週の退院になりそうです。

白血球の値が底まで下がり 上がり始めるまで安心はできない。

それで 毎日 白血球が上がる皮下注射を打つことになった。

手洗い、うがい、マスク着用

生ものは絶対食べないこと、果物もだめ

全て加熱してから食べること

食事は病院食に戻すことになった

隔離まではいかないけど 一歩手前の状態です。


確かに今 娑婆は寒いし、インフルエンザも流行っている

今帰るのは命取りになる。病院の方が安全だ。


しばらく自分で買って来たものを食べていましたが

看護師さん仕事上 <今日はなにを食べましたか? > と聞いてくる

<黙秘します> と答えると 笑いながら教えてとつめよってくる。

ひるまず クールに <黙秘します> 


西となりの人は 僕と同じ抗癌剤治療で 僕の2日前に点滴をはじめた。

アスベストによる肺癌で、すでに右肺は摘出したと言っていた

今回の治療は1回目、ぼくが入院してきたときにはすでに

副作用の便秘に悩まされていた。71歳、僕と同じ歳

僕は1回目の経験から対処のしかたを色々アドバイスした

いままで便秘したことがないので全く解らなかったと言っていた。

僕も解っていたにもかかわらず今回2日ほど便秘した。

点滴治療を始める前から下剤を服用しておくべきだった。

この人は今日 一時退院して12月2日に2回目の治療入院をするらしい

一時退院 のことを 今流行りの 仮釈放 とみんなで揶揄した

一緒に<オスマン帝国外伝>を見ていた仲間だった


北隣のおとなりさん は 今日8時すぎに手術室に向かった

以前、胸の動脈瘤で手術をしたが 今回は下腹部の手術だと言っていた

66歳、2つの仕事をかけもちで 一年中休み無しで働き続けて来たという

4人部屋ですが 僕以外皆入れ替わりました。

よくも つぎつぎと入ってくるもんだわ まるでリペア工場みたいだ


ということで 今回は 報告だけのブログになります。

あとしばらく おとなしくしています。

では



  

Posted by hamabeat at 20:04Comments(0)ボクメンタリー

2019年11月20日

KNZW W670 刑事ジョン・ルーサー 191120

すこぶる    元気    デス

入院して2週間経ちました。たぶん明日の検査結果次第で退院日がきまるでしょう。


白血球がそれほど下がっていなければ24日(日曜日)当たりの退院になるかと思っています。

ここ一週間、病院食は全て断って自分で取り繕って食事しています。

病院食を殆ど残して捨てられるのはもったいないし、一食500円ちかくが無駄になる。

あの食事で500円ちかくは高すぎる。ぼくは食事制限がないのでしばりはない。

今朝は 残りの鶏の唐揚げを2個、茶碗蒸し、温泉卵、バナナ2個、牛乳しっかり

それから大粒のブドウを10個  時間をおいて ナッツとポテチをミックスして食べた。

お昼はたぶん パックの釜飯(あるいは、おにぎりを2個)をチンして カップヌードルといっしょにいただく。

夕食は肉丼とか弁当とかを買って食べてます。

このやりかたで 病院生活がいちだんと快適になった。でも この食事 3週間続けるのはキツイかな


これから白血球が下がってくるので食べ物には注意している。

生ものは食べるなと言われている。果物も皮を剥いて食べるのはいいが

カットしたもの、むいてしばらく置いておいたものは食べるなという

売店で買って来ても ほとんどチンして雑菌を殺してから食べてる。

ともかく鼻、口 から菌を入れないように気をつけている。

退院してからが特に怖い、インフルエンザも流行しているしね

…………………………………………………………

今ブログを書いているのは持参した MacBook 黒のポリカーボネイト製

ずいぶん使ったし古くなってきたし画面は13インチで小さいし 

ヤフオクでもう少し新しい MacBook Pro 15インチを買った

といっても届くのは福井の自宅の方だから退院してからセットするつもり

今回入院時 iPadを持って来て WiFiでアマゾンPrimeの無料映画を見ている

iPadは小さくてベッドで見るにはちょうど良い

テレビでは毎週土曜日夕方BSで <刑事ジョン・ルーサー> というドラマを見ている



イギリスBBCが制作した50分の刑事物だが これが面白い

万人向けのドラマではない。日本のかったるい刑事物でもない。

デンジャラスでサイコパスな内容なのでお茶の間で見るようなドラマでもない。

最初の1話目から僕は はまった。

どちらかというと <羊たちの沈黙> <セブン> の系列に入るかな

ジョン・ルーサー役は イドリス・エルバ  イギリスでは人気の人らしい

アリス・モーガン役にルース・ウィルソン

ジョン・ルーサーとアリス・モーガンのコンビが面白い



第何話だったか憶えていないが最後のバックに僕の好きなニーナ・シモンの唄が流れていた。

確か アニマルズの放題 <悲しき願い> だったと思う

アリス・モーガンのことをジョン・ルーサーは Freaks と言っていた。

フリークスとは マニアックな 奇人、変人 のことですが その通り

頭が良く知的で 冷酷で クールで小悪魔的 な感じが魅力的です。

でも ジョン・ルーサーのとりまき 妻や信頼の置ける相棒まで次々と殺される

アリス・モーガンも殺されたことになっていたが またどこかでヒョイと現れるかも

本人もかなりひどい傷を負いながら命がけで戦ってるのをみると

日本のドラマは脳天気というほかない

アマゾンPrimeに5話くらい無料のものがあるので見た

以前放送で見たものだが 最低2回はみないと詳細が掴めない。

何回見ても面白いですね。あくまで僕の好みのドラマですが


今月からBS日テレで <オスマン帝国外伝>の再放送をやっている。

再放送といっても シーズン1、シーズン2 は再放送になるが そのあとシーズン3が新たに続く

シーズン3が楽しみですが シーズン1は最初の方を見ていないので今回最初から見ている

病室のおとなりさんも途中から一緒に見るようになって 今は3人でみている

見ていない人は今から見ていくと面白くなると思う

ともかく かのオスマン帝国です 長い長い物語ですぞ

では
  

Posted by hamabeat at 19:48Comments(0)ボクメンタリー

2019年11月17日

KNZW W670 治療レポ 191117

11月5日に入院して 7日に抗癌剤による点滴治療を行いました。

前回の80パーセントのくらいの投与と聞きました。

前回は便秘、下痢、発熱、食欲不振と強い副作用に苦しみました。

今回は投与後5日目くらいに体がだるくなり頭がぼーっとしていましたが

しばらくして楽になり 15日からスッキリしてきました。

食事は院内食はやはりまずく昨日から食事をストップしてもらい

売店で買ってきたものを食べてます。俄然 食欲が出てきてしっかりと食べれるようになりました。

時間通りに3度運ばれてくる院内食をどうやって食べようかと思うストレスから解放され

食事を楽しめる気持ちにすらなり 気持ちが随分軽くなりました。

これからは この手でいこうと思っています。

いまのところ検査結果も順調で うまくいけば来週の日曜日くらいに退院できればと思っています。


  

Posted by hamabeat at 15:40Comments(0)ボクメンタリー

2019年11月06日

KNZW W670 Report1 191106 スコットランド アイラ島

昨日11月5日 抗癌剤点滴治療のため 金沢の病院に入院しました。

血液検査、レントゲン、心電図、CTスキャンを撮り

いずれも問題無しで、癌細胞は退院時と同じく小さくなったまま留まっているということで

とりあえず一安心です。

9月21日に退院してから45日(一ヶ月半)経っています。

その半ばにようやく食欲が戻り、普通の食事がとれるようになりました。

昨日の夜の病院食も普通に完食することができました。

今日は検査は無く、明日 数時間の点滴治療を行います。

後は 検査によって副作用の程度と癌細胞の大きさを確認していく流れになります。

前回の抗癌剤よりも少ない量なので副作用は軽いと思われますがやってみないと解りません。

丁度 寒くなって来た時期なので 暖かい病院環境は助かります。

皆様も お体に気をつけてお過ごしください

………………………………………………………………

ロハス という言葉はどこかで見聞きした言葉だと思います。

LOHAS とは <lifestyles of health and sustainability>の頭文字をとった言葉です

<健康で持続可能な生活様式>という意味だそうです

sustainability サスティナビリティー とは 持続可能性 という意味です

前にも紹介した 福岡伸一”ロハスの思考” にはこのことを詳しく説明してあります。


最近 パリ・コレ の ファッション ショー の放送を見ました

ほとんどのデザイナーのかたが  <サスティナブルな>  という取り組みを標語にしていました。

<サスティナブル> は 持続可能性と言う意味で 

地球環境を意識した物作りをされていることになります。

再生された素材を使って衣服を作り、最後また再生するという循環型の物作りです。

簡単にいえば 不要なゴミは作らない、それに関わるエネルギーも使わない ということです


それと  最近 スコットランドの島 アイラ島 の放送を見ました

「アイラ・モルト」として知られる スコッチ・ウイスキー で有名です

ピート(泥炭)がウイスキー作りに欠かせないものであるという理由がようやく解りました

泥炭 を乾燥させて薪や石炭の変わりに燃料として使いますが

それだけでなく スモーキーな香り付けにも無くてはならないものです

泥炭 は湿地帯で掘り出されますが 絶やすことの無い再生可能な方法で行われています。

ここの蒸溜所も そして小さな織物工場も 昔ながらの設備でゆっくりと物作りをしています

随分前のブログ ”宇宙船とカヌー” に掲載したビデオのウイスキーのコマーシャルに

”さしあげたのは 時間です” というフレーズがありました

まさに ここでの ウイスキー作りは 島の立地にあった 

風 と ピートの香り と 時間 によって醸し出されています。 

この島は スコットランド初の波力発電所 を持ち 蒸溜所 の余熱を利用したりと

島全体で 持続可能でエコ な取り組みをされています。

島の景色も美しく これもウイスキーのコマーシャルですが 

”なにも足さない なにも引かない” そのまんま で 非常に魅力的な映像でした。


地球温暖化に関する災害が地球規模で起きています。

日本でも西日本豪雨のみならず、巨大台風による関東から東北の災害がありました

この異常気象は日本だけで解決できる問題ではありません

我々人類が引き起こした現象ですから 全地球規模で解決しなければなりません。

そのうち 福岡伸一”ロハスの思考”を元に解りやすく説明したいと思います。

ヒントになればよいかな と思いますので


では
  

Posted by hamabeat at 13:36Comments(0)ボクメンタリー

2019年10月15日

191105入院予定


まず 報告から

10月1日に金沢の病院で外来健診してきました

血液検査の結果は ほぼ平常の値に戻っていますとのことです

レントゲン検査の結果では 軽い肺炎は治っていてきれいな状態でした

ただ 副作用のせいで 食欲がないので 少し間を開けて 食欲がある程度回復してから

2回目の抗癌剤治療のための入院をしたいとお願いし

11月5日に入院し 約2週間~3週間 入院の予定での治療と決定しました

最近少し 食欲が戻って来て 以前より食べれるようになってきました

薬を絞って 少なくしたことも食欲が出て来た原因かもしれない

ただ単純に 普通に戻りたいと思う

なに不自由なく普通に生きている人達には解らないことでしょうが

大きな病気を患った人や 体の不自由な人 災害で肉親や家を失った人にとって

普通に生きていくことの大切さは身にしみてわかるはずです

何も考えることなく 普通に生きたいと思います



  

Posted by hamabeat at 19:34Comments(0)ボクメンタリー

2019年09月21日

KNZW W668 Report4 190921退院

今日 21日もうすぐ退院します 今回の抗癌剤の治療は 量も多く 色々な副作用に悩まされました

それで 退院が伸びましたが 完全に良くなった訳ではなく 自宅療養という形です

癌細胞はかなり小さくなり思ったより効果があったようです

人によって違っているようで 全く効果がなく 副作用だけ味わわれる方もおれれるようです

この治療は あと 2回行われます。 10月1日に金沢の病院で外来治療

血液検査、レントゲンの結果をみて 次回の入院日を決めるようです

2回目も金沢の病院で抗癌剤治療を受けます

抗癌剤の量はかなり落としての治療になるようです。

副作用の経過を見て 退院日を決めるようです。

書きたいことは沢山ありますが そろそろ退院準備をしたいので

報告のみにとどめます


では

  

Posted by hamabeat at 15:08Comments(0)ボクメンタリー

2019年09月14日

KNZW W668 Report3 190914

一周間くらい前 寒気がして 熱が出た

抗癌剤治療の副作用で白血球が低い、ということは菌を退治する力が落ちているということになる

感染症にかかると命取りになる。マスク、手洗い、うがい は必須である

熱を下げる薬と、抗生物質の点滴を今日まで続け、ようやく熱も収まった。

ずーっとベットに寝ていたので体力が心配だ。

去年始め62〜3kgあった体(もっともこの体重は肥えすぎなんですが)が10月に最終退院したころには

45kgまで落ち込んだ。今回の入院で毎日完食していたこともあり50kgまで戻した

副作用で塩化ナトリウムの値が減ったのでしばらく食事の時におぎなっていた

といっても これは塩そのものである。ごはんやおかずに振りかけては食べていたが

なんといっても 塩辛い 舌を差す そのせいで食欲も落ち49kgになった

食事がまずいし 毎食 なんとか自分をだまして お茶で流し込んでいるありさま

なんといっても病院生活はつらいものです

持参の本もとっくに読み切り 読むものが無くなり ベットに寝転び過去の思い出に耽っていた

癌というものは転移というもがありやっかいなものである。なかなかサヨナラができない

髪の毛は抜けてきました。その前にひげがいつもと違うなということに気が付きました

2〜3日もするとゴワッとするひげが 柔らかく細く遠慮がちにはえて来て存在感が無い

これはヤバい 髪の毛もそうだろう と思っているうちに抜け始めました

でも まだ 残っています。スキン にはなっていませんので悪しからず。


大林宣彦監督は’16年8月、肺がんステージ4、余命3カ月という宣告されても今だ映画を撮り続けている

最後の講義というドキュメンタリーのシリーズがあって その中に彼の3時間に及ぶ講義もあった

時間を切らず質問が無くなるまで続けられたが その中のこんな言葉が印象に残っている

オレが死んだらお前も死ぬんだぞと 癌に言って来たが 視点が180度変わった

地球にとって オレはいったい何なんだろうと考えた

地球にとって 俺(そして俺を含めた人類)は 癌なのではないか

と 正確ではないでしょうが そんなことをいっていたように思います

ロボット工学の世界的権威・石黒浩教授は人間は滅びるだろう

最後に生き残るのはロボットだろう
 と最後の講義で言っていました。

そして 僕の愛読書でもある レヴィ・ストロースは<悲しき熱帯>の最後にこう言っています

<世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう>

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ハワイ島の北部にそびえる「マウナ・ケア山」は、標高4,205mを誇るハワイ諸島の最高峰

ハワイ語で「白い山」を意味する名の通り、冬になれば山頂付近が雪で覆われるこの山は

雪の女神・ポリアフが住む聖地として古くから大切に守られてきたそうです

現在、先住民を中心として山頂に至る道路が封鎖されています




そこには世界中の天文台が数多く並んでいます。

現在、日本も参加しての巨大な天文台TMT(Thirty Meter Telescope、30メートル望遠鏡)の建設計画中です

ハワイの原住民にとってこの山は聖なる山です。巨大な天文台が出来ることで多くの公害が産まれます。

天文台の目的はブラックホールの解明と水と空気のある惑星を捜すためと言っています

この もともと美しかった青い水の惑星 人類の果てしのない欲望によって破壊されつくされたこの地球をおいて

どうして はるかかなたの水と空気の惑星を捜そうとするのか

まさか この地球を捨てて 選ばれた者達で移住するため とは言わないだろうな

そんなことより この地球を元に戻す努力を今すぐ取りかかるべきこと が先決と思うが

もう 時すでに遅し かも知れない。

いつか レヴィ・ストロースが予言した言葉通りになる日がくるだろう

…………………………………………………………………………………

1969年 という年が いま話題になっている。

英米ロックのビックバンとも言われているこの年 ウッドストックフェスティバルが行われている。

この映画は 19670年に大阪で見ている。

ぼくはイギリスのロックには興味がなかった

このフェスティバルの完全版ドキュメンタリーは今月3日〜4日の深夜に放映された

僕は残念ながら見逃してしまった。再放送を望みます。

この 1969年  のことを書くつもりだったが長くなったので次回に廻します

1969年 ぼくは21歳だった。その前後の僕と佐々の生活模様と映画についてのブログになります。

では

  

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2019年09月02日

KNZW W668 Report2 190902

MTさんとSTさんは 8月31日土曜日 二人揃って仲良く退院されました

20日に入院して22日に点滴による抗癌剤投与を5時間くらいで終了しました

その後4〜5日後から副作用が激しくなりしばらく何もできなかった

今日9月2日で10日余り経過して副作用も落ち着いてきました

電話がかかって来て皆が開口一番に 髪の毛あるう とか 抜けた?  とか

皆様のご期待に添えないのは心苦しいのですか  変わりありません とお答えしています



前回ブログの救命ヘリの搬送途中で死んだらどうするか の答えですが

ちょっといい案が見つかったのです

そのまま上昇して天国へ直送してくれると助かるんだがな

でもね 天国では 遺体という物体は預かることはできません と言われるだろうな

遺体という2文字は遺された体と書く   魂の抜けた遺された体という意味だろう

なるほど よくできた ネーミング だわ  まいりました

こちら天国にお入り出来る方は 魂 のみです  

やはり ヘリ の中では死ねないな 金沢でも死ねん

福井で死んで 死亡証明書と火葬証明書とを役所に届けないと

生命保険だっておりないでしょうね  抜け道ないな


アメリカの酔いどれ詩人 トム・ウエイツ がこんなことを言ってました

並んで入場するってのは デイズニーランドでもう沢山なんだ

俺が死んだら 天国でも地獄でもどっちだっていい 空いてる方へ入れといてくれ

だって

今日は短く 報告だけ

では 

  

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2019年08月25日

KNZW W668 Report & 読書の日々

8月20日 金沢の病院に入院しました。

ぼくがに運転して 佐々とMさんと3人で下道を走りました

9時半に出て 途中鶴来の 蕎麦処 草庵 へ





11時半 に開店ですが早く着いたので開店待ち

雨の日にも関わらず 2組がすでに並んでいて僕たちの後1組が

時間通りの開店で 僕とMさんは せいろ特盛 と 鴨ロース

佐々はこの前と同じ 茄子や茗荷をトッピングした蕎麦を注文









鴨ロース がすぐに出て来て Mさんと2人で食べる

絶妙な味 よ焼き具合 で 中は柔らかく 鴨の旨味がじんわりと出てくる

噛み切れない程の弾力があるので 1切れは丸ごと食べることになる

これだけ食べるだけでも ここに来る価値あり やはり お酒のつま によいが飲む訳にもいかぬ

つづいて 蕎麦 特盛り 結構な量がある 食べれるかな?といいながら

1口  この1口目の蕎麦が一番うまい 冷たくて固めの喉ごしがよい

欲をいえば ダシが旨いともっと旨いのだが ダシに関しては 一滴庵 が最高だった 次に大久保

でも 2人とも全て完食となり 満足の極みでした

店に入ったころにドシャ降りの雨になったが 続々と客が入り 待ち席に一杯だった

ゆっくり食べてるわけにはいかん 丁度雨も小降りになったので店を後にする

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1時過ぎに病院に着き 入院の手続きをする

受付の女性の方が またよくしゃべる人で 書類を出すと

この 連帯保証人の方は奥さんで同居されているのでこれはダメですよ という

僕もおかしいなと思ったんですが 同居されていない親族のかた とはどこにも書いてないですよ

それに 下の欄のクレジットカード決済の方は云々 という下りも訳がわからん と言うと

そうですよね わたしもおかしいと思うんですよ だから今書類を作り直してるんですよ

と 大きな声で 笑いながら言う

じゃ これで 通して下さいよ というと

解りました と また 大きな声で 笑いながら言う

その調子でお互いお喋りしてるものだから

遠くで聞いていたMさん あんたら何を楽しそうにしゃべっとんねん と不思議な顔をする

手続きが済んで おなじみの 西6階のナースステーションへ

看護師さんたちに お帰りなさ-い お久しぶりです といわれる

この前入って居た 同じ668号室 4人部屋の窓際  2ベットは空いている

手術、ICU、個室 を経て 入って来たSTさんがとなりのベット

心臓の大きな手術をしたそうですが 元気そうです

この窓から見える 2棟南にヘリポートが出来ていて丁度同じ高さになっている

長く入院していた人は 何度もヘリの着陸を見ているというが

僕はまだ見ていない 退院するまでには 何度か見れるかな

僕が去年へりでここへ運ばれた時はまだヘリポートが無く

近くの自衛隊のグラウンドに着地して救急車で運ばれた


さて 入院するなり 血液検査、レントゲン、心電図、CT 検査

前回の10日入院の時に知り合ったMTさんが表敬訪問

となりのSTさんはMTさんと同じ心臓の手術なので 2人は情報交換して 仲良くなった

MTさんは前回僕が居た時からの人だから随分長い入院になる

この2人 毎日どちらが早く退院するかを冗談まじりに競い合っていたが

医師が STさんに 経過が順調なので 来週の半ばか遅くとも週末には退院ですね

よかったね というと うれしそうに勝ち誇ったような満面の笑み

それを聞いたMTさんは かなり 落ち込んでたそうな

退院で喜ぶSTさんに 奥さん待ってるね というと 去年亡くなったんだ という

STさんは72歳 だから 奥さんは まだ若かったろうにと淋しくなった

でも それなら STさん ここに長く居た方だいいんじゃない

涼しいし 上げ膳据え膳 だし シャワーもいつでも入れるし というと

いやあ 40日も居るとね 飽いてくるからね 

でも 彼は入院中に僕と同じように 肺の下部に白い小さな影が見つかっている

正体はまだ定かではないが また外来で検査をするそうだ

MTさんは STさん 次があるからねえ 次が と冷ややかに言う

STさん 勝ち誇ってもいられないな

バトルは続くのだ 死ぬまで それが運命というもんだ

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さて 自分の話をしなくては

20日に入院して 即検査をして 21日に今後の治療方法の説明を受ける

その後 冷ややかな感じのおなじみの薬剤師さんが説明にきた

この人とは去年2月に入院した時以来の天敵で 喧嘩ばかりしていた

今回の抗癌剤の投与は去年は3回に分けて隔週1回の投与でしたが

今回は 22日に一回全量いきますからきついですよ と 脅しにかかった

一週間後くらいから副作用の症状がでます。 今回は髪の毛はバッサリ抜けますから

と さらに脅してきよる 勝ち誇ったように言いよる 負けちゃおれんわい

さらにシニカルに ウィッグ なんかもありますから といいよる

そんなもん着けるか スキンヘッドで頭突きしてやる

そうは言うものの 佐々に早速緊急電話 帽子とバンダナとプロボリスとビタミンE を送ってくれ

佐々は自分の過去の経験から コロコロがいるわよ 布団に髪の毛がいっぱいつくから と

22日 9時半から点滴開始 トータル5時間 抗癌剤は4時間 前後1時間

その日は その後 すこし体がだるいように感じたが 気のせいかも

23日 朝から元気が出て来て 食事は3食ともガツガツ完食

気力もポジティブで今までになく前向きな気持ちになった

ただ ひたすら 読書 読書  仕事も合間にしてますけど

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3冊の本を持って来た。 1冊は前回紹介した 金子文子 の <何がわたしをこうさせたか>

これはすでに読了してしまった。思わず最後まで一気に読んだ

朴烈と同棲し活動を始めるまでの生い立ちの伝記ですが

記憶力の良さに驚かされます。それだけ過酷な生活だったからでしょうが

その生活の中から学び取ったものは後からの思想の土台になっています。

生涯で 本当に気を許して好きになった人は 山根初代さんと 朴烈 の2人です

関東大震災のあと この2人と共に逮捕され監獄に入れられます

山根初代さんは持病の肺病が悪化して獄中で亡くなります

金子文子と朴烈の2人は獄中で結婚します

そして2人共に死刑宣告を受けますが すぐさま恩赦で無期懲役に減刑されます

金子文子は皇室の恩なぞ受けん  とその書状を所長の前で破り捨て 後日獄中で縊死する

しかし その死も真相は定かではなさそうです

朴烈 は抵抗するものの獄中に残り 終戦のあとにすぐ出獄

朝鮮に帰り運動を続けるが 朝鮮戦争の時に北朝鮮に捕まり後年北朝鮮で亡くなる

金子文子は日本人ですが遺骨は朴烈の故郷の実家の墓に葬られたそうです

長くなりましたが 映画を見てからまたコメントしたいと思います。

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さて2冊目は 1970年代に読んだ本です。呪術師ドン・ファンの教え の

3作め  <イクストランへの旅 術師になる>  という本です




もうほとんど読んだのでもうすぐ終わる

1970年代に読んだ時とは新しい発見もある 特に <死> に関する箇所

1作目、2作目は ダツラやペヨーテやキノコによるトリップの話が多く

解りにくい内容ですが この3作目は 著者カルロス・カスタネダとドン・ファンとの2人の対話が中心なので

大変面白く 深く感動的な内容です。この3作目だけ読んでも充分な気がします


持って来た3冊目もやはりカスタネダの <未知の次元> これはシリーズの4作目です





このシリーズは10巻以上あり ほとんど真崎義博氏の訳で

二見書房から出版されていますが この4作目だけが

なぜか 青木保監修、名谷一郎訳 横尾忠則氏の装丁 1979年講談社発行となっております

のちに  真崎義博氏の訳で <力の話> というタイトルで出版されました


カルロス・カスタネダによるこのシリーズは彼のフィンションであり

この ドン・ファン・マトス という呪術師は実在しないという説が有力です

それにも関わらず 高い評価を各方面から受けています。

どうも完全なフィクションとするには出来すぎた感じがします

まあ そんなことは置いといて この2人の対話から何を学ぶかですか

これは長くなりそうですので後日のブログに載せることになります。

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24日午前2時頃 目が醒めて いろいろ考えていた

以前Mさんが ぼくにこう言った

<あんた 間違えても 金沢の病院では死ぬなよ

遺体を福井まで運ぶのに金がかかるし 両県の手続きも大変なんだから>
  と

それもそうだな と思い あれこれ考えているうちに

去年 福井から金沢まで救急ヘリで運ばれて来たが

空の途中で心肺停止、甦生かなわずお亡くなりになったらどうすんだろう?

どうかお願いですから 福井まで戻してもらえませんか? と僕が言える訳もない

遺体となった僕は いったいどこへ運ばれるのでしょうか?

気になって 寝られなくなった


では またの レポ まで
  

Posted by hamabeat at 09:00Comments(0)ボクメンタリー

2019年08月12日

報告 と 映画の紹介

まず その後の報告 になります

すこしずつ回復している感がありましたが

6月末 金沢の病院で半年に1度の定期検診がありました

CT Scan の画像診断の結果 右肺下部に1.3センチほどの影が発見されました

それと 人工血管の閉塞の進行が指摘されました。

脳への血流が心配されるということで脳の MRI を撮りました

この結果は 左右脳の血流は問題ないという結果になりましたが

肺の問題で PET 検査が必要ということになり

7月25日に PET 検査をし そのまま入院しました

その結果 肺の他に気管支のあたりに3カ所リンパ部分にも問題が見つかりました

肺とリンパ部分の2カ所の生検を行い 転移による癌細胞であることが判明しました

10日間入院し 8月3日に退院してきましたが

8月20日から 約3週間 金沢の病院で 抗癌剤による治療が始まります。

その結果を確認してから たぶん 福井の日赤で通院治療になるとおもいます。

外科手術ではないので 入院中も仕事はできますし

入院しているほうが 環境も快適で安心して生活ができます。

金沢の病院ともなかなか縁が切れませんが

縁の切れ目が 命の切れ目 かなと 思っています

体は それなりに回復していますが 抗癌剤による治療で白血球が下がるので

感染症に気をつけなければなりません

ここまで この間の 報告になります



僕が これ以上胸を切って開いて手術するのは嫌だな というと

Mさんはこう言いました

お前な だったら ジッパーにしてもらえ! ジッパーに!

それもエエな  と  二人で大笑い

そんなとき冗談を言って笑わせてくれる トモ は ありがたいです。

10日間の入院のときも いろんな人と情報を交換したり

冗談を言い合ったりして楽しかったです

また 次の入院の出来事も報告しますので よろしく
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ちょっと気になる映画が見つかったので紹介します

<金子文子と朴烈> という映画です





サイトは こちら です

ミニシアター系で上映していましたが人気が広まって

上映館が続出しているそうで  現在あちこちで上映中だそうです




レンタル開始が10月なので ぼくはそれを待つしかありません

それで 金子文子の岩波文庫の <何が私をこうさせたか――獄中手記>を購入し

読んでるところです。 入院中に読み切るつもりです。





朴烈 と出会い運動に参加するまでの生い立ちから手記のようです

かなりはっきりしていて 無駄無く解りやすい文体で

ついつい引き込まれて読み進んでしまいます

<わたしはわたし自身を生きる>という言葉通りの生き方をした人です。

人は皆 沢山のものを着て 多くの荷物を背負っています

生い立ちとか学歴とか肩書きとか諸々ですが

あたかもそれが自分であるかのように錯覚して生きています

金子文子は 無籍者です。籍を持たず両親から虐待され捨てられ

親戚をたらい回しにされ、ありとあらゆる苦難と貧困を経験しています

家族も社会も国家からも虐待され裏切られた裸の無籍者であり

守るべきものも無く 何も持たない ただ わたし自身を生きる こと に徹した人です

社会主義もキリスト教も彼女の救いとならなかった その末に

朴烈 と出会い 無政府主義者たちと行動を共にしたのは

自分と同じ境遇を 仲間達のなかに感じたからに違いない

そしてその虚無主義という思想に救われたのではないかと思います

しかし 革命を起こして 政権を奪い 国を動かしていくというようなことは全く考えておらず

もしそういうことになれば 同じように他を抑圧していくだろうとわかっていました

<わたしはわたし自身を生きる> という言葉そのものを生きた人だと思います

彼女を批評や批判することはできません 彼女は思想で生きたのではなく

わたし という 何も身に付けていない体ひとつで生きたのですから


ゆっくり 入院中に読書するつもりです

もちろん 仕事もしますよ

では また

  

Posted by hamabeat at 17:29Comments(0)ボクメンタリー

2019年06月19日

二つの大きな社会問題 高齢者による暴走 と8050問題

そろそろ トモ から電話がかかってきそうなので

先手を打って ブログを出します

(ブログ 更新してないけど どうしてる?)

僕のブログはある意味 生存証明 です。

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毎日のように同じようなニュースが報じられています

高齢者による暴走 と

8050問題

この二つの問題 これからさらに展開される避けられない社会問題です

その始まりの時期に突入した感があります

それに対して 予測も対策もなされてこなかったことに気が付き始めた

たまたま起きた単なる事故 とはもはや言えなくなった問題です

まるで次々と連鎖されていくかのように毎日起きている悲劇です。

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今回は 高齢者による暴走 について考えてみます

かくいう私も 高齢者の仲間入りをしています

随分前の まだ30代の頃だったと思います

姉の車(マニュアル車)を借りて大通りから右折 スピードを落としながら

ゆっくり惰性で裏通りに入った所でブレーキを踏みました

全く何の反応もなくそのままゆっくり車は走り続けています

人通り無く車も走っていなかったので幸いでしたが

頭の中は真っ白になりブレーキのポンピングを繰り返しました

そのうち ブレーキが効き始め車は無事止まりました

自分が操作しているマシンが全く制御出来なくなった時の恐怖

そのことが 何時自分の身に起こるかどうかは予測出来ませんが

走行中に起きた時にどうすればよいかを考えておくことは大切です。

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そのこととは違いますが 車に乗ってイグニッションキーをひねります

普通は ウィ と セルモーターが重く廻り エンジンがウィーンと回転し始めます

でも キーをひねっても無音 という経験をしたことはありませんか?

あの 無音 ほど むなしい瞬間はありません

いかにキーをひねってからの あの雑音とも思える音がなつかしいか

そのとき初めて気が付きます

コンピューターを立ち上げるとき 電源ボタンを押して 全く無反応の時の

あの 無音 無反応の 沈黙の不気味さも同じようなものです

思わず 電源ボタンを何回も押したりします

マシンに AED をかけて 心臓をポンピングするかのようで

そのとき はじめて マシンが生き物かのように愛おしくなります

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昔のコンピューターやブラウン管テレビは電源がアナログだったため

叩けばたいがい直りましたが今はそういうわけにはいきません。

車も メカニカルな機械のかたまりだったので エンジンの押しがけ だってできましたが

今は基盤だらけで コンピューター制御なので 故障したらお手上げです

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さて 高齢者ドライバーによる事故の多くは

追突だったり、縁石に擦ったり。歩道に乗り上げたりと ちょっとした事故が原因で

パニックになり 頭の中真っ白 そのあげく ブレーキを思い切り踏んでいるつもりが

アクセルをフルで踏み続けたために起きています

ポンピングすれば ブレーキかアクセルかの違いは解りそうなものですが

もうすでに 常軌を逸した状態に陥っています。車のスピードはグングン増し

大変な事故のあとどこかに衝突して止まるまで

本人にとっては一瞬の出来事かもしれません

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最初に書いたように 本人がまともでも 車が制御不能になることも有ります

その時の経験から サイドブレーキをゆっくり引いていくことを学びました

咄嗟に起きた時は正常な対応が出来ません。ウソだろうこんなこと! と

受け入れられなくて 信じたくない気持ちが走りますが

その間 車だって走っています

気持ちを切り替えること そして他の対応を知っておくことが大事です

いつも何事もなく何気なく使っているものを信じすぎてはいけません

そして 自分をだって 盲目に信じていてはいけません

去年僕は 幸いにも家の中でですが 気を失いました

車の運転中だったらと思うと ゾッとします

その時は 運転中だったとしても車を脇に止めてエンジンを止めるくらいの余裕はありましたが

いきなり 意識を失うことだって 誰にでも起こりえます

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僕の女房(佐々またはイカリ)は運転免許をもっていません

従って当たり前ですが 車に乗るときは何時も助手席です

僕が運転手で彼女が助手席といえど 同じ車に乗っているわけです

もし僕がおかしくなって車が暴走し始めたら

事故だけで終わったとしても心中になるか

まして歩行者に突っ込んで死者が出たとすれば 共犯者になります

だから そのようなことが起きた時 何もできませんでした では済まされません

せめて 最低限車を止めるための努力をしてくださいとレクチャーしてあります

僕の車は幸いなことに 助手席との間にサイドブレーキがあります

助手席に一番近い所にハザードランプがあります。

ことが起きた時 ハザードランプを点灯、左手でハンドルに手をそえて 

右手で ゆっくりサイドブレーキをひき

スピードが落ちてきたらギアをニュートラルにもどす

助手席から車を止めるための最低限のマニュアルです

知ってさえいれば できることはある筈です。

車の操作パネルや位置は車種ごとに違いますから参考までに

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車のメーカーにも問題はたくさんあります

最近ようやく 自動ブレーキ が取り入れられてきましたが

燃費やシートベルト、エアバック、居住性といったことが主で

運転手や同乗者の快適さや安全性に重点が置かれてきたように思われます

しかし このところの事故をみていると

車は武器になり得ますし 車の凶暴性についても考えざるを得ません

燃費や走行性能、スピード性能といったことよりも

いかに 安全に走行し いかに車を停めるか(走らせないか) を考える必要があると思います

現在のシフトレバーのレイアウトにも問題はあると思っていましたし

ドライブのモード が 始動から高速走行までアクセルの踏み具合だけでで繋がっていて

リミッターが無いことも おおきな疑問です


8050問題もそうですが 高齢化が引き金になっていることは確かです

早急に具体的な対策を講じないと大変なことになりそうです


では
  

Posted by hamabeat at 15:55Comments(0)ボクメンタリー

2019年05月19日

口 と 舌  mouth&tongue

さて 昨今 政治の世界での常識といえば 嘘とトボケと居直り

直近では ナントカ議員が北方領土で暴言を吐いた

戦争をして北方領土を取り返す だとお

日本の憲法を無視した許しがたいこの発言

所属の党から除名されたものの 議員は死守すると宣言しよった

議員どころではない 人間をやめてもらいたい

ということで 今回は 口 と 舌(ベロ) のお話

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佐々によく言われる 口が軽い だの 二枚舌 だの

二枚舌 今日はどちらの 舌で言い   と 五七五

その通り 舌が二枚もあると どちらの舌で喋ろうかと迷ってしまう

しまいには もつれて 喋れなくなる

でも かつて 僕には 喋れなくなった苦い経験がある

喋るには それなりにルールや順序というものがある

それをまとめているのが 数珠でいうと玉を繫いでいる紐

玉が単語だとすると 順序だって並べて繫いでいるのが紐です

その紐が切れたとすると 玉=単語はバラバラと床に転げ落ちます

そうなると 一つの玉=単語はでてきても 次の言葉が出てこない

結果 喋れなくなります

随分前に経験したことですが 僕そのものが バラバラになった数珠の玉でした

これは 本当の話です。僕の脳も理性もはっきりとしていての出来事でした

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口に関する言葉は驚く程沢山あります

減らず口(へらずぐち)、憎まれ口(にくまれぐち)、苦口(にがぐち)

告げ口(つげぐち)、陰口(かげぐち)、差し出で口(さしいでぐち)

口先(くちさき)、大口(おおくち)、無駄口・徒口(むだぐち)

 口が滑る 、口を割る 口封じ 口を挟む  口を閉ざす 、口車に乗る

口がうまい 、口が軽い、口が重い 、口が堅い 

口が腐っても、口が裂けても、口が酸っぱくなる程

口が減らない、口から先に生まれる

口が悪い 口に乗せる 口を揃える 口減らし 逃げ口

等々 エトセトラ

そのほとんどが 否定的な言葉です

いかに 口 によってダマサレタ経験による教訓的な言葉であるかが解ります

口 というものが いかに汚いものであるか それは 人間の汚さでもあります

政治の世界で随分のおえらい閣僚たちが失脚していったのも口のせいです

 口が滑った ということですが 最近軽々と滑らないようにするため

砂まきマニュアルなどというおふれがでているそうな

敵もさるもので 発言そのものは認めるが 

私としてはこういう意味でいったつもりですが間違って伝わってのなら謝りますと

解りきった逃げ口上を歯切れ悪く汗吹きもって言いよる

しまいには 記憶にございません と 口を揃えて言いよる

先に上げた 口に関する言葉は ほぼ全て この人達にあてはまる

そうそう 大事な言葉を忘れてた  口裏を合わせる  ダ

いくら口裏を合わせても 目は口ほどにものを言い で

目と顔の表情を見ればわかる 口は嘘ついても目は嘘つかない

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最近は ボイスレコーダーで録音というのが流行ってます

パワハラ弱者の唯一の抵抗手段です

ただ 内部告発だけではどうしても逃げられる

録音の開示は決定的な証拠となるので言い逃れしようがない

皆 ポケットのスマホの録音録画のスイッチはオンにしておいて会議に臨みましょう

それから ドライブレコーダー も必須です

か弱い 我が身を守る為の必須アイテムですゾ

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口 に関するおしゃべりにはきりがない

舌 に関する言葉はきわめて少ない 特定の部位であるからかも

二枚舌、舌が廻る、舌の根の乾かぬうちに 等々

 嘘をつくと閻魔大王に舌を抜かれる とか 舌切り雀のお話があります

前回ブログに書いた   オスマン帝国外伝 のなかで

ヒュッレムにたてついた側女の舌を切ったり

捕まることが解っていた宗教指導者の舌を切ったりがありました

殺すより喋れなくして見せしめに生かしておくということなのかな

自殺の方法として舌を噛み切るというのがあります

だから拷問する前に自殺しないように 先に歯を抜いてしまうそうですが

なんとも 残酷なことを人間はするものです。

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壁に耳あり 障子に目あり と申しますが 口より汚いものは無い

というのが 今回のブログのテーマですが

どうしたら 正直で無垢で美しい言葉を発することができるのでしょう

でも 美しい言葉 こそ 怪しい裏がありそうなので みなさん注意しましょう

そして僕も 舌が二枚あるとはいえ 一枚目の舌も抜かれないように気をつけます

では 


  

Posted by hamabeat at 21:20Comments(0)ボクメンタリー

2019年05月08日

夢のお話 No.11

夢のブログは  夢の領域  というカテゴリーで 過去10回書いている

今回は11回目になる

夢の話は他人にするなと昔から言われている

盗んだり、盗まれたりして 利用されるからだと言う

僕の夢は 利用されたり儲かったりするような夢ではないので問題ない

夢は 毎日見ている。 印象に残る夢もあれば 記憶に残らない夢もある

朝食のときに 印象に残った夢は 必ず ササ に話をする

忘れないようにするためでもある

よくそんな夢を見るわ と バカにされる時もあり 笑われる時もある

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この前 こんな夢を見た

高校時代の同級生の同窓会の集まりがあり

数人の仲間と歩いていると 先の方に他のグループが歩いている

合流しようと みんなが走り出すので 僕も全速力で走り出した

しばらく走っているうちに 夢が次第に薄れてきて 目が覚めた

なんということの無い夢だが 僕には大きな夢だった

去年は三回の大きな手術をし ほとんど入院のベット生活

手術のダメージも大きく 退院後も静かに歩くのがやっとなので

走ったことがない。 以前のように走れたら という願望が心のどこかにあったのだろう

夢から覚めたときに あっ 僕は走れるんだという喜びでいっぱいだった

自分を脱ぎ捨てて 走っているようで そのスピードと風の流れが心地よかった

スピードは 人を ポジティブに そして 幸せにしてくれる


数日後 自分とすごく気の合う不思議な女性の夢を見た

僕の夢に女性が出てくることは非常にめずらしい

なんだか これも うれしい夢でした

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最近 こんな夢を見た

僕は小高い所から前方を見ている。こんな感じ





左に四角い灰色の建物があるが 窓が一つもない

右側は小高い崖になっていて上の方に草がはえているが

したの方は土がむき出しになっている

前方には穏やかな湖面が広がっていて

その先に 四角い建物があるが ここにも窓が一つもない

どうやらその建物に行く必要があるようだが

ボートもなく橋もないので行く手だてがない

目的はあるが そこに辿り着く手段がない

その建物には窓もなければ 入り口も無さそうだ

しかもその建物に行くことが目的だが 何の目的かは解らない

ただ そういう とりとめのない 意味のない 夢だった

こういう夢はよく見る

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目標はあるが 道はない 道といっているのは みな彷徨いにすぎない

と カフカ は言っています

存在はその中心において彷徨なのである


と  ガストン・バシュラールは  言っています

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以前のブログにも書いたが 作者不明の夢がよくある

この手の夢は どうも 細胞レベル か DNAレベル から出てきているのかも

と 最近思うようになってきた

自分が自分になる前のずっと昔の記憶のプールから

その夢は送られてきてるのかも知れない

みなさんは どんな夢をみていますか?

きょうは とりとめのない 夢 のお話でした

では また    

よい夢を見て下さい
  

Posted by hamabeat at 09:54Comments(0)夢の領域

2019年04月09日

トルコ、オスマン、チューリップ

4月4日に福井赤十字病院で診察を受けました

血液検査と胸部レントゲン撮影

結果は問題無しでした。 次回は6月末に金沢の病院での診察です。

福井赤十字病院での診察時には いつも姉夫婦とMさんに逢います

Mさんは 去年ヘリで金沢の病院へ搬送されるさいにお世話になった方です。

僕より2歳年上の人で かなり体の大きな人です

工場の屋根をペンキ塗りしていた際に落下した怪我で月イチくらいで通院しています。

体が大きいのが災いして 大変な怪我をされたようですが 元気にやってます

月に1〜2度 家に遊びにきて コーヒーを飲みながらおしゃべりしています。

彼のことは またいつかお話します。

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去年の暮れ頃から 佐々が見ていたのにつられて テレビドラマを見ています

トルコの史実に基づいた大河歴史ドラマ 「オスマン帝国外伝」です




有料動画サイトでもやっていますが BS日テレでは無料で見れます

1時間の番組ですが CMが20分 本編が40分くらいで 平日週5日の放映です

シーズン1から連続で繋がっていきますが いま現在はシーズン2の終わりの方です

世界で大ヒットしたドラマのようですので 今からでも興味のある方は見て下さい

ぼくは トルコの文化 特に言葉や音楽や食べ物や衣装や宝飾品や建物に魅せられています

オスマン帝国の歴史にも興味がわいてきました

あらずじとかはオスマン帝国外伝のサイトでみれますから参考に

ある程度 見ていかないと 名前や人物相関図を把握するのに時間がかかります

トルコ語ですが YouTube にはほぼ網羅されていますので内容はおおよそ解ります

ぼくは このドラマの晩年の暗くて悲しげな雰囲気が好きで

はやくその時代にならないかと思っています

ただ 放映は昼間なので 仕事してる人は録画して見るしかありませんね

内容は 日本でいう 大奥の舞台ですが お国柄の違いで

それはもう 暗殺、毒殺、斬首、兄弟殺し と ドラスティックな内容です

跡目相続と覇権争いは 日本とは比べ物にならない凄惨なものです。  

トルコ、イスタンブールはシルクロードから欧州への交通の要ですね

アジア、中東、アフリカ、欧州、ロシア に対しても要の土地です

帝国を作るにはうってつけの位置にありますね

民族や文化の坩堝かもしれません

日本は廻りを海に囲まれていて 守られていますが

廻りの国々と地続きのこれらの国々は戦いの日々だったでしょう

そういった 地域性と時代性からみていくと色々と教えられます

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この後の時代だと思われますが 「キョセム スルタン」 のドラマがあるようです




これも見てみたいと思います

トルコは意外にもチューリップの原産国だそうです

トルコ語でターバンをツリバン(tulipan)というそうで

チューリップ(Tulip)という名前はターバンに由来すると言われているそうです

この前 このチューリップの原種の球根から栽培されたチューリップの花をTVでみました

いまのチューリップと違って 優雅で美しい花でした

オスマンのタイルや装飾品に印されたチューリップの柄は

この花に近い繊細な形をしています


それから トルコ至宝展が5月20日まで  東京国立新美術館で開催されているようです




6月から 京都国立近代美術館で開催される予定です

佐々は 京都に見に行くようですが 僕はまだ残念ながら行くことができません

では  最近 トルコ色一色の 我が家からの通信でした

また ネ

  

Posted by hamabeat at 19:42Comments(2)お気に入り

2019年03月29日

桜の木の下には

今日は3月29日 もうすぐ 4月 桜咲く 季節

昨日28日 福井で桜の開花宣言があった

気象庁の制服を着た ちりちり頭の職員が うれしそうに宣言していた

桜の開花の見極めは 全国にある そめいよしの の桜です

この桜は クローン だそうで 個体差のない均一な コピー です

だから南北に細長い日本の気候の違う各地での基準となる木にはうってつけです

同じ環境の同一条件のもとでは同じように一斉に花を咲かせる

個性の無い花だからか 養老孟司先生は この花はクローンだから嫌いだ

と ネコメンタリーで つぶやいていました

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去年の今頃は 金沢の病院で 抗癌剤と放射線治療を終え

3月23日に退院 その20日後に手術入院し 4月16日に外科手術を行った

去年の今頃は福井の家で外科手術前の待機状態だった

あれから 1年が経ちましたが 去年の桜の記憶は全く無い

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今、仕事で SKULL の スワロフスキー データ を作っている




死の淵から戻って 生き延びた この僕が SKULL(ドクロ) のデザインとはね

今日はちょっとゆっくりして 仕事をさぼって ブログでも書くことにする

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「桜の木の下には屍体が埋まっている」これは信じていいことなんだよ。

梶井基次郎のこの言葉には ハッとさせられる

皆が美しいと思って眺め 愛でている桜の花のピンクの色は

桜の木の下の 多くの生きもの達の血を吸い上げて染まったピンクだという

春は全てのものたちが 一斉に蠢き始める残酷な季節でもある

生と死の生臭い戦いの季節の始まりでもある

これから一斉に咲き始める花々は 死の化身 のようにも思える

去年の体験から 僕は 生の内側の死が見えるようになってきた

ぼくにとって 死は 特別なものではなくなった

世阿弥が残した「風姿花伝」

秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず

という言葉があります  どう解釈するかはそれぞれです

日本の伝統の底には 大きな死があるように思えます

死 は 克服しようとするものではなく 感じ取るものだと思います

生 よりも もっと大きく果てしないものが 死 のなかにあるように思えます

べつに 死を美化してるわけではありません

死を見て感じることで もっと 生 が豊かになるように思うからです

生きることの方が むつかしいことだと 最近思えてきました

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以前のブログにも書きましたが、詩人 吉野弘 の 茶の花おぼえがき の一節

「施肥が充分で栄養状態のいい茶の木には、花がほとんど咲きません。」

栄養をたっぷり与えられた植物は 自分が死ぬということを忘れ

花を咲かせないそうです。花は次の世代に命を繫ぐためのものであって

自分が永遠に生き長らえて死を意識しなければ花を咲かせないそうです

死によってこそ生は成就されるということです

茶の木も 優良な茶の品質を確保する為に 接ぎ木や挿し木 によって増やされるようです

完全なクローンでコピーを作り続け、生殖もさせずに一生を終わらせるのですが

最後に朽ち果てる前に死を意識して 一斉に花を咲かせるそうです。

花をさかせないことで 茶の葉に充分な栄養をあたえるという人間が操作した仕組みに

ただ一つ 最後の花を咲かせることで 反抗しているようにも思えます。

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昨日 ドキュメンタリーを見ました

シリアダラヤという街の廃墟の地下に図書館を作っている人達の映像です

アサド政権に対する抗議運動の中でのドキュメンタリーです

この街の戦闘員と民間人は2016年に政府軍によって撤退させられました

その人達は現在トルコやイドリブに逃れています。

撤退前後の人々の生活状況が映し出されていました













この中で ジョージ・オーウェル「1984年」の一節が出てきます

<目覚めるまで反抗しない、反抗して初めて目覚める>

「1984年」という小説は全体主義の監視社会を扱った近未来小説です

そして1984年は Apple がスーパーボウルの伝説のCM『1984』とともにデビューを果たした

Macintoshのコンピューターが発表された年でもあります





この映像は リドリー・スコット によって作られました

では    ま た 
  

Posted by hamabeat at 16:58Comments(0)別れの準備